生活の観察

Reasoning in the Wild

解決を免れた問題ある人工物

部屋の窓にはブラインドがついていて、いつもどの紐を引っ張れば望ましい動作をするのかわからず、ちょっとした試行錯誤の時間が生じている。写真のように二本しか紐がないケースでは、一見してどちらを引っ張ったら望ましい動作をするのかはわからないが、初手で失敗してもそんなに大変ではない。なぜなら残りの一本が確実に正解だからだ。

このように迷いやエラーを生じさせるものの、その状態はすぐ収束に向かうので、私たちの日常生活をほんの少しずつ蝕んでいるけれども、さりとて抜本的な解決策を講ずるほどのものでないということで放置されているもの、これをさしあたり「解決を免れた問題ある人工物」と呼ぼう。

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解決を免れた問題ある人工物は、相当気合の入った修復者が登場しない限りずっとそこに放置されていて、その使用者たちを一瞬イライラさせる。誰もが「あれはダメだよな」と言いながらも誰も何もしない。もっとも、何もしないのにはいくつか理由があるだろう。

  1. 先に述べたように、そこまでの労力をかけるほどでもないという経済的理由により「何もしない」という可能性。
  2. 公共物であれば、修復する権利が自分にはないという判断のもとで「何もしない」可能性。
  3. じつは解決策が容易に浮かばないほどに問題が難しいので「何もしない」可能性。

だいたいこういったとこだろうか。ブラインドはこのいずれも当てはまる場合が多いように思う。おそらくメーカーもその辺はよくわかっているのだろう。さしあたりの解決策として、紐に何か細工をするという方向の解決策は取らずに、小さい布に書いた説明書を紐につけておいて、それを読んでどうにかしてくれ、という姿勢をとっているところがある。しばしば機器操作上のインタフェース上の問題解決策として「貼り紙を貼る」という方策があることは報告されてきた(新垣・野島 2004)。ブラインドの紐はその物質的特性上貼り紙を貼るわけにはいかないので、このメーカーの策は苦肉の作であろう。しかし、私個人の経験であるが、ブラインドを使用するという作業の流れを省察するに、これは問題の解決を導くものではない。

なぜならユーザの私はブラインドの操作を何度も失敗してきた経験により、トラブル状況はさほど続かず、適当にいじっていればすぐに問題が解決できると思っているので、まず説明書を見ないからである。

ではいつ説明書を見るかというと、散々いじってもゴールできず途方に暮れたときである。こうした場合は、だいたいメーカーが通常想定している作業フローや想定されたブラインドの状態から「外れた」状態のように見えてしまうので、もはや説明書を見てもしょうがない。説明書には理想状態しか描かれていないので、当然ながら眼前で生じている問題の解決方法は説明書には通例書かれていない。だから、よくわからんなと独りごちつつ説明書から目を離して、結局適当にいじるのを再開することになる。そしてほどなく問題は解決される。

もうひとつ。紐の操作性を損ねてはいけないということなのか、この説明書は実に小さく、中身も本当に簡潔である。ユーザである我々は、このありとあらゆることが省略されたマニュアルと、目の前の現実の状態を重ね合わせながらゴールにたどり着かねばならない。個人の経験で言えば結構な割合でうまくいかない。これは先に述べたとおり、現前のブラインドがメーカーが想定するような理想状態ではないということもあるが、それ以外に、説明書のなかの説明が省略されすぎてよくわからないということがある。

かつてリヴィングストンは、折り紙を折るというワークの研究で、折るという作業と説明書を見るということとの関係について、次のように述べていた。

「インストラクションに従うために多くの作業をせねばならない。多くの詳細は除外されているようである。 私たちはインストラクションに示されているイラストを『達成する」』ためにワークしなければならない。 私たちは何をする必要があるのかを見つけねばならない」(Livingston 2008, 97)

「インストラクションは過程しか示していない。インストラクションの実践的妥当性は、インストラクションが私たちに何を指示しているかを発見する私たち自身の作業の中に組み込まれている」(Livingston 2008, 98)

これはまったくもっともなことであるし、ブラインドの事例にも当てはまるだろう。

しかし重要なのは、ブラインドの使用の事例のように、説明書を見るということそれ自体が作業の流れのなかにそもそも埋め込まれえないことがあるのではないか、ということである。ブラインドを使用する際、最初から説明書を見ることはないし、説明書を見るときは、すでにそれを見てどうになかなるようなフェーズは過ぎ去っている。解決を免れた問題ある人工物は、説明書を近場に置く程度のことでは容易に解決されないタフさを有しているのだ。

そういうわけで、解決を免れた問題ある人工物は、誰から頼まれたわけでもないが、せっせと日々被害者を生み出し、今日も誰かをイライラさせているだろう。でも、それは悪いことばかりではない。トラブル事例は私たちがこの世界とどのように折り合いをつけているか、そしてつじつまをどのように合わせているのかをはっきりと見せてくれる。だから、トラブルを紐解くことで、私たちのことが少しわかるようになる。さらには多くの人がそれを経験しているという事実が、それを皆で語り合うことを可能にしている。今日もなんてことない無駄話で、誰かが誰かとブラインドの問題について話の種にしていることだろう。私もその一人である。

 

参考文献:

Livingston, E., (2008) Ethnographies of Reason, Farnham, U.K., Ashgate.

新垣紀子・野島久雄(2004)「問題解決場面におけるソーシャルナビゲーション:貼り紙の分析」『認知科学』11(3),pp.239-251.

推論の資源としての貼り紙

新型コロナウイルス問題により、私たちの対人距離についての日常実践は一時的なものかもしれないが、ずいぶんと変わってしまったという言説はそこかしこでみかける。確かにそうなのだろう。現時点でそんなに感染者が出ていない山口市でさえ、みんな他人の振る舞いや動線に気を配っている。

今、なんとなく「一時的なものかもしれないが」と留保を置いた。こんな状況はずっとは続かない。そう遠くないうちに元に戻るはずだ。こうした見込み、あるいは希望が、この言葉の選択に現れている。そして、多くの人がそう思っているはずだ。そんな確信さえある。もちろん、この新型コロナウイルス問題は想像以上に長く続くかもしれない–––そういった類の専門家の発言も見聞きするし、それはとても説得的だ。実際、これはどうも長引きそうではある(「withコロナ」というワードが出てきたあたりからそんな雰囲気も出てきたように思う)。それでもなお、「多くの人がそう思っているはずだ」と不思議となぜか言えてしまう。

まずもってこんな自分が不思議である。僕は楽観主義者だったのだろうか?なんとなくそんな感じもしないわけでもないのだが、ここは自身のアイデンティティを性急に設定するのではなく、もうちょっと慎重に考えたい。僕は「自分のみがそう考える」とは考えていない。「多くの人がそう思っている」と考えているのだ。この点はしかしこれまた妙な直観である。お世辞にも地域の方々と普段からやり取りがある方ではない。というか、家族と職場以外でよもやま話をする機会はあまりない。

では、こうした確信めいたものは、どこからもたらされたのだろう。メディアが拾い上げた街の声、近しい人たちとのやり取り、他人も自分と同じ希望を持つはずだしそうあってほしいという勝手な期待。どれもあるだろう。

ここで参考になるのは、僕らが日常生活の徒然において理解可能なあれこれはなんらかのパターンの「証拠」として扱われる、というガーフィンケルの発見だ(Garfinkel 1962)。僕らの日常的な推論は、こうした作業によって可能になる。では、「多くの人がそう思っているはずだ」という僕自身の推論を分解してみよう。どんな「証拠」を、いかなる「パターン」のもとでそれとしてとらえ、「多くの人がそう思っているはずだ」という推論を導いたのか。

 いくつかその推論を可能にした資源はあると思うのだが、パッと思いつくのは「貼り紙」だ。「テイクアウトはじめました」「レジにお並びの際は前後2メートルの距離を空けてください」「入店時は消毒液をご利用ください」などなど。新型コロナウイルス問題は、A4サイズの白い紙を町中にずいぶんと溢れさせた。手書きの場合もあれば、おそらくパワーポイントで作成したファイルをA4サイズで出力したものもある。そういう違いはあるが、そのほとんどが「紙」で、そこに警告、注意、ナビゲーションが手短かに書かれ、それなりに目のつくところに貼られていく。

山口に来てはや6年だが、職場以外で四方山話をするのは家族以外にいないので、実際に近隣の方が考えていることは「会話」を通してはわからない。話してないから。でも、彼らの残したさまざまな痕跡から十分に僕らは推論することができる。ただし、それが正しいかどうかはまた別のことだ。ここで重要なのは、ちょっとしたことから僕らはいろんなことを深く推論することができる能力をもっている、ということだ。ほぼ毎日商店街に行き、主に食品を買う。週末は商店街を抜けて近隣の公園に子どもを連れて遊びに行く。この日常のルーティンにおいて、僕は突然見慣れた景色に溢れたたくさんの「貼り紙」を視野にとらえていて、それを「多くの人がそう思っているはずだ」という推論の証拠としてとらえていたのだ。

これについて最初にはっきりと意識したのは、週末に子どもと遊びに行く公園で「注意/禁止の貼り紙」を見たときだ。

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禁止された遊具

ちょうど新型コロナウイルスの罹患者が増えていた最中に、「新型コロナウイルス感染拡大防止のお願い」として、遊具の遊びに直接的に邪魔にならない場所に貼られた。ちょっとわかりにくいかもしれないが、上の画像の3つの貼り紙のうち、上部が黄色でマークされているのがそれだ。そこには、次のようなことが書かれていた。

《保護者の皆様へ》

◯公園の利用につきましては、『密集』『近距離』とならないよう御注意願いただき、声掛けなどの御配慮をお願いします。

◯遊具で遊んだ後は、しっかりと『手洗い』と『うがい』をさせて下さい。

《よいこのみんなへ》

◯少しはなれて遊びましょう。

◯遊んだあとは、しっかり『手洗い』、『うがい』をしましょう。

山口市 都市整備課

この時はまだ閉鎖されていなかったので、「幼児に言って聞かせるのは難しいなあ」と思いながら遊ばせていた。同時に、空間的にひらけた公園までこうした貼り紙が貼り出され、行動の制限を要求してくるのか、そこまできたのか、と思ったのであった。

緊急事態宣言が出るタイミングの前後で、この遊具には使用禁止の貼り紙が貼られた。上の画像でいえば、ちょうど黄色い滑り台のところに上部が赤色でマークされているのがそれである。赤色のマークの上に白字で「遊具使用禁止」がふりがな付きで書かれている。そして、その直下には「新型コロナウイルス感染拡大防止のため5月10日まで遊具の使用を禁止します」と、山口市都市整備課名義で書かれている。「5月10日」の部分は赤字下線付きで強調されている。これ以外にも同様の貼り紙が何枚かこの遊具に貼られていたが、いずれも遊ぶことを直接的に制限する場所に貼られていた。

 注意喚起と禁止。しかもそれは、公園の利用者たる僕に向けられている。注意や警告が自分に向けられているということを自覚したとき、やや当惑しつつ、「どうしようかねえ」と一瞬考える。そして、「今日は公園で遊べないって」「またすぐに遊べるようになるよ」「今日は商店街のお散歩にしようかねえ」などと子どもに語りかける。このとき、僕は明らかにそれが「一時的」であることを前提としている。もちろん、自身のコロナ禍に対する素人の予測や願望がその背景にあるのは間違いない。もうひとつは、この貼り紙を貼った管理側の人びとも、少なくとも未来永劫続くとは考えていないことも見て取れることがある。

「遊具が撤去されて更地になる。遊具の『新しい』利用ルールが可変性が低い看板に書かれ、それが設置される。あるいは、『新しい生活様式』に適応した新しい遊具に置き換わる。そういった大きな変更までは今のところは考えておりません。あくまでも一時的・応急的・仮設的な処置にしておきます」

そういう設置者の意図が、貼り紙(および簡易テープ)という取り消し可能性が高いオブジェクトを使用していることから推論可能になる。一時的、応急的、仮設的、可変的なオブジェクトの使用は、それを見る者に対する、そこで指示されていることの時間幅の予測にかかわっているのである。

そこでふと、商店街でたくさんみた「テイクアウトはじめました」「レジにお並びの際は前後2メートルの距離を空けてください」「入店時は消毒液をご利用ください」と書かれた貼り紙が、まさに「紙」に書かれていたことに思い至ったのであった。見栄えはお世辞にもよいとは言えない。とりわけ店頭のデザインに明確なコンセプトがあって、物の配置や置かれる物のテイストになんらかの一貫性がそこに見出されるような店の店頭にベタッと貼られた貼り紙の異質性といったら!でも、それでもなお「紙」なのだろう。なぜなら、それは未来永劫続くものではないという予測、願いがあるからだ。なんらかの契機にすぐに以前の形態に戻れるようにしている。

かつてマンハイムは、特定の出来事の意味が何かの証拠として現れたとき、「証拠の意味(documentary meaning)」は遡及的に組み合わされて解釈されることを指摘していた。たとえば、「私が見たもののすべての意味を分析すると、突然「慈善の行為」が実際には偽善の類であったことがわかるかもしれない」(Mannheim 1951: 47) というように。

公園の貼り紙と商店街の貼り紙は、どちらもコロナ禍を前提にはしているけれど、前者は注意喚起もしくは禁止の通知、後者は新しいサービスまたはルールの通知という点で、それによってやろうとしていることは明確に違う。でも、どちらも「紙」を使っていて、いかにも急場でこしらえたことがわかる意匠でメッセージをこちらに伝える形式を採用している。この共通点の発見が、両者を結びつけ、ひいては「多くの人がそう思っている」という集合的理解に帰結したのであった。

これがもし、可変性・取り消し可能性の低いオブジェクトに刻印されるようになったら、いよいよもって皆「変わる」覚悟を決めたのだなと僕は推論するだろうし、それに合わせて自分自身の生活の組み立て方も考え直すことになるのだろう。

ところで、公園の禁止看板が仮設的であることについて、石川初は次のように述べていた。

…これは、公園の本質に関わっている。繰り返し述べてきたように、公園は本来、都市における「その他」を引き受けるべく構想された、なにをしてもよい場所なのだ。その公園のコンセプトを固持するために、禁止看板はほかの場所ではなく公園に設置されねばならないのである。公園の禁止事項は必ず、特殊で例外的な事項として掲げられるからである。禁止看板はつねに「ローカルルール」なのである。

(石川 2018, 63)

 なるほどたしかに公園は、都市の公共空間においては許されていない一切のことを許容する場所として建前的に設計されているがゆえに、そこで実際にはなにが禁止されているかは一見してわからない場所である。だから、「禁止事項を発信する側としては、「公園を眺めただけではわからないでしょうが、ここは球技は禁止です」というテキストを掲げるよりほかない」(石川 2018, 61)のである。ここで「建前的に」とわざわざ書いたのは、実際には公園はリテラルに「なにをしてもよい場所」ではないからである。これについては、シカールが次のように端的に説明している。

空間と遊びの関係は、流用とそれに対する抵抗が緊張状態にあるという点で際立っている。一方では、空間は、遊びによって自由に流用されてよいものとして提示される。しかしもう一方で、その空間は、ある種の遊びに対して–––とりわけ、政治・法律・道徳・文化などの観点で認められない遊びに対して–––抵抗する。

(Sicart 2014=2019, 89)

今回僕が公園で注意喚起の貼り紙にことさら意識が向いたのは、公園という空間のコンセプトを僕が十分に理解していたことは無関係ではない。だから、一方的に管理し、制限する貼り紙が登場したときに、普段はさほど存在感を示さない管理権限者の存在と強権性を強く感じ、そして「そこまできたのか」という軽い驚きと困惑を覚えたのだろう。他方で、そこでは同時に「紙」というオブジェクトが使われていて、その意匠も明らかに急場ごしらえであることから、あくまでもこれは一時的な例外事項であるという理解もまたもたらされたのだ。

はっきりいって注意書きの貼り紙はどういじっても格好が悪い。これについて、ノーマンは、次のように述べていた。

私は悪いデザインを見つけるための経験則を持っている。注意書きの貼り紙を探すことだ。使い方を書いた貼り紙を見たときはいつも、そこがへたにデザインされた部分なのである。

(Norman 1992=1993, 27)

ノーマンの主眼はあくまでも装置の使い方のナビゲーションの問題の指摘であり、その限りにおいて正しい指摘ではある。一方で、彼は注意書きの貼り紙自体の一時的、応急的、仮設的、可変的性質について見逃している(この点に対して、「貼り紙」の問題解決のためのソーシャルナビゲーション的機能に注目した新垣・野島(2004)は示唆的である)。

これらの性質は、とりわけ非常時に価値をもつように思う。この格好悪いは貼り紙は、「この非常時はいつかは終わり、きっと通常に戻る」という予測・願いの表象として解釈可能なものでもあるのだ。このことは、平時においては想定されてこなかったことなのかもしれない。そんなことを考えながら、なんとなく自分が他人からどう見られているかを気にしながら商店街で買い物をし、週末はいつまた閉鎖されるかわからない公園で子どもを遊ばせる日々を過ごしている。

 

参考文献

新垣紀子・野島久雄(2004)「問題解決場面におけるソーシャルナビゲーション:貼り紙の分析」『認知科学』11(3), 239-251.

Garfinkel, H. (1962). Common-sense knowledge of social structures: The documentary method of interpretation. In J. M. Scher (Ed.), Theories of the mind (pp. 689–712). New York: The Free Press.

石川初(2018)『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い:歩くこと、見つけること、育てること』LIXIL出版

Mannheim K. (1951[1921/22]). On the interpretation of ‘Weltanschauung’. In K. Mannheim (Ed.), Essays on the sociology of knowledge (pp. 33–82). London: Routledge & Kegan Paul.(=1975, 森良文訳「世界観解釈の理論への寄与」樺俊雄監修『マンハイム全集1 初期論文集』p45-141, 潮出版社

Norman, D. A. (1992). Turn Signals are the Facial Expressions of Automobiles. Reading, Mass: Addison-Wesley. (=1993, 岡本明・八木大彦・藤田克彦・嶋田敦夫訳『テクノロジー・ウォッチング:ハイテク社会をフィールドワークする』新曜社)

Sicart, M. (2014). Play Matters. Cambridge, MA, London: MIT Press. (=2019, 松永伸司訳『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』フィルムアート社)

手繋ぎと視界

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商店街ってこんなに奥行きあったっけ

2歳と4ヶ月になる子どもが、ちょっと前から気が向いたときは手を繋いで歩いてくれるようになった。これは2歳児との外出経験に大きな変化をもたらした。より安全に歩けるようになったとか、親愛の情が高まったとかそういうこともあるのだが、何より「遠くを見ることができるようになった」のだ。

幼児は、好奇心のおもむくまま、四方八方に飛び回る。ありとあらゆるものを触る。こんなところに、というところに侵入したりする。「幼児だから」という理由によるある程度の周囲の免責は期待としてあるし、また事実、多くの場合は「あらあらまあまあ」という微妙な面持ちを伴いつつも許容してもらえる。

でも、だからといってまったく放任というのもそれはそれで親の責務履行が不十分だと怒られそうなので、程度をみて2歳児を注意したり申し訳なさそうな態度を周囲に示さないといけない。躾もしないといけない。親であり続けなければいけないのだ。だから、とにかく幼児からは目が離せない。「目が離れている」ことがまわりから観察されれば、それは後で問題が生じた際の責任帰属の証拠として用いられる可能性がある。何よりそうすることで幼児は容易に危険に突入してしまう。幼児は本当に危険予測ができない。そういう事情もある。

こんな状況だと、親(つまり僕)の視線は、ずっと2歳児を追うことになる。2歳児から距離ができてしまうと危険回避ができなくなったり、他人に迷惑をかけてしまう可能性があるので、一定の距離をもって追いかけ続けることになる。すると、基本的に視線は斜め下に固定化される。そして、幼児を中心とした、周辺視野が及ぶ範囲しか見えなくなる(僕の場合、左目の視野が通常よりも狭いので、おそらく他の人が経験するよりも見える範囲が狭い。まあ、この視覚しかもったことがないので、通常の視野がどれぐらいなのかは感覚的にはわからないのだが)。

こんな感じで2歳児を自身の観察下に常態的におこうとするので、手を繋がない幼児と一緒に歩くときの基本的なフォーメーションは、付かず離れずの距離感を保ちながら、幼児が前、僕がそのうしろ、となる。このフォーメーションは他者から特定の規範を伴って観察しうるものであるとも思う。親が前、幼児がうしろといったフォーメーションの親子を目撃したときに、どんな遠くからそれを見たとしても、そこに何らかのトラブルを推測してしまうだろう。このように、「親が幼児を見続けていること、あるいはそれが可能なフォーメーションを維持できていることが第三者からも観察可能であること」は、社会生活においてとても重要なことなのである。

で、「手繋ぎ」の話である。初めて2歳児が商店街での散歩中に手を繋いでくれたとき、それ自体の喜びもあったのだが、実はそれよりも、「幼児から視線を外して遠くを見ることができた」ことの驚きが大きかった。とりあえずは手を握っているから、幼児の安全はそれなりに確保されているし、トラブルにも対処しやすい。何らかの手段で繋ぎ止めてさえいれば、実は「幼児から視線を外すこと」の問題性は低減するのだ。これは発見だった。まだベビーカーに乗ってくれていたときは「遠くを見る」ことはできていたはずなのだが、ベビーカー乗車拒否かつ手繋ぎ拒否が長く続いたので、すっかりその感覚を忘れてしまっていた。ああ、こんなに商店街は奥行きがあったのか。休日の商店街はそれなりに人がいるのだな。アーケードってこんなかたちしてたっけ。

よく考えれば、私たちの移動における視覚経験は、たいていは「ちょっと先を見ている」体勢からもたらされるものが主なのではないか。むしろ、足元まわりをずっと見続けるのはかなり特殊な状況なのではないか。そんなことすら思う。それが特殊な状況であるがゆえに、その状況におかれたときには自由の制約を感じるし、それが外れたときに開放感を感じるのかもしれない。制約を感じていて大変だからそこから外れようとすると、今度は親の責務の履行評価という他者の眼差しが迫ってくる(ように他者の視線を理解してしまう)。幼児の「手を繋ぐ」という技術の獲得は、こうも僕に変化をもたらすものであったのだ。

2歳児は、いずれは手を繋がなくても横に居てくれるようになるだろう。あるいは、その危機管理能力への信頼性が向上して、ずっと見続けなくてもよくなるだろう。それは、今度はどんな移動経験を僕にもたらしてくれるだろうか?

学生の時分に、菅原和孝・野村雅一編(1996)『コミュニケーションとしての身体』大修館書店を繰り返し読んだ。収録論文のひとつに、斎藤光「並んで歩く技術」がある。そこに、こんな一節がある。

…「並んで歩くこと」の特質として三点ほどが考えられる。まず第一に指摘したことは、「並んで歩くこと」が常態で、「自然」のように見えるが、見知らぬ人と並んで歩いてしまうという状況を考えるならば、非「自然的」に作られたものであるということであった。歩く側からすれば、脇に特殊な意味があるらしく、また、並び歩く二人を見る立場からすると、その二人に一定の関係を読み込む記号でもあるということだ。第二に、動物が複数で移動する場合を理念的に考察すると、横並びで二人で歩く行為には、生物的な基盤はないらしいということが推察された。そして、第三に、その行為は、成長するにつれて獲得していく行動様式の一例であるらしいことがわかったのである。したがってそこには文化の力が働き得るし、何らかの文化的刻印をそこに見るのも当然のことであろう。

(斎藤 1996, 106)

ここに書かれている「自然」さや「生物的基盤」が、現在、動物行動学など関連分野でどれほど支持される主張なのかはわからない。関連する論考があれば、ぜひ読みたい。さしあたり、人間が「並んで歩くこと」に内包されるさまざまな規範の存在を見い出すこと自体は正しいと思う。2歳児は、この規範をまさに学習している過程なのだろう。2歳児との散歩は大変だが楽しい。いや、ほんとに大変なのだが。

振り返ってみれば、僕自身が「なんてことのない身振り、とりわけ歩行などの移動の規範性」を通して社会のルールというものを探求していきたいな、と考えるようになったのは、このあたりの論文を学生のときに読んだからだった(あとは同書に収録されているケンドンの挨拶行動の論文や、ゴフマンの移動体の議論とかを繰り返し読んだ)。懐かしい。あまり全面に出したことはないが、僕の研究テーマのコアは実はこれであって、そのために、いろんなフィールドの歩行場面のデータを集めてチマチマと分析を続けてきたのだった。今は育児で手一杯でどこにも行けないのだが、ついその路線で自分自身の日常生活も眺めてしまう。なんてことのないルーチンと手癖に満ちた日常ではあるが、特別な場所に行かずとも、こうもいろいろな発見があるのだ。

 

参考文献

斎藤光(1996)「並んで歩く技術」菅原和孝・野村雅一編(1996)『コミュニケーションとしての身体』大修館書店, pp94-135.

公共的な丸い石

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おもむろに置かれた石とブロック

教育学部棟と国際総合科学部棟のあいだの短い通路に、丸い石がひとつ、ブロックがひとつ置かれている。ちょっと見にくいが、写真のとおり。丸い石は傘立ての近くにある。ブロックは丸い石からやや離れた右側にある。

いつごろからあるのかわからないが、少なくともこの石とブロックの存在に僕はかなり前から気付いていて、ここを通るたびに「ああ、今日もあるな」と少し気にかけている。ここは一日にけっこうな数の人間が通るところなので、たぶん、ここにずっとあることに気付いている人はそれなりに多いと思う。

最初は、「変なところに置いてある石/ブロック」だった。どういうわけかたまたまここにある石/ブロック。あえて特別な意味を見出すとすれば、片付けるとしてもどうも面倒な、そしてその権利と義務の所在もいささか不確定な、誰かが気まぐれな善意を発揮するまでなんとなく放置されている不要物、か。しかし、それは「ドアストッパー」かもしれないなと、石/ブロックの存在に気付いてからほどなくして思うに至った。

上の画像の左右の出入り口を1日に1回は1往復する。というのも、右側の建物には僕の所属する学部の事務室があるからだ。そして左側の建物には僕の研究室がある。この通路の左のドアから右のドアへ、またはその逆方向の移動中にこの2つの石を見る経験は日々積み重ねられていく。すると、あるとき、この石/ブロックをドアと結びつけて見るひらめきが得られたのである。なるほどこれは「ドアストッパー」だ。ドアというオブジェクトと、それを開くという行為、そしてその状態を維持するという企図との関係性のうちにこの石の新たな意味を見出したのである。

ドアストッパーである可能性が得られたとき、この石/ブロックがここからどこかに持っていかれたり、片付けられたりしないでずっとここにあることもあわせてわかった。この2つのドアの開閉(及び通行)の権利は、多くの人びとに開かれている。その点で公共的なオブジェクトである。その使用に関連付けられたドアストッパーとしての役割を与えられている石/ブロックもまた公共的性格を帯びることになる。それゆえ一個人の判断でそこからどこかへ持っていくことは躊躇される。

ところで、最近また発見があった。いつも僕はこの通路をドアからドアへ移動する過程でこの石/ブロックを見ていたので、それをドアとの関連性のもとで理解することは当然のことではあった。ドアを正面に見据えた状況においては、石/ブロックはその周辺にあるものとして見えるからだ。でも、画像にあるとおり、この通路は十字路で、中庭から緑のネットをまくって学食方面に向かう道もある。普段この道は通らないのだが、たまたま通ることがあった。すると驚くことに、石/ブロックがドアストッパーとは異なるものに見えてきたのだ。もしかして、この石/ブロックはネット下部の開閉部分を押さえるために使う「重石」なのでは?

これまで、この緑のネットは当然に視野には入っていたのだが、正面にしっかり見据えることは稀であった。だから、石/ブロックと関連付けて見ることはなかった。たまたまこの道を利用するにあたり、緑のネットと相対したとき、相変わらず視野の周辺に石/ブロックは見えていたものの、2つのドアはそれより外側にあるからか、可視野においてより周縁化した。すると、緑のネットと関係したものなのではないかという推論が立ち上がってきたのである。

緑のネットの左側奥に幟の台座が2つあるので、いやいや重石はこっちかもなとか考えているうちに、ちょっとしたことに気付いた。この石/ブロック、仮にドアストッパーであったとしたら、置かれている場所が少しおかしいのである。というのも、石/ブロックは、2つのドアの軸の部分、つまり開かない側に置かれているのだ。これはちょっと不経済ではないか?だとすると、やはり重石であると理解したほうが正しいのかもしれない。

さらに、明らかにこれらはただの石/ブロックなので、通路上に置いておいておかないと、野生の石/ブロックと区別がつかなくなって、誰かに勝手にもっていかれたり処分されたりしてしまうかもしれない。だから、あえてここに置かれていることが妙なものとしてハイライトされるような、つまり何らかの特別な意味付けを喚起しやすい、そして緑のネットと関連付けて見ることもまた可能な場所に置くということを誰かがやったのではないか…。

そんなことをぐるぐる考えていると、そういえば、ウィトゲンシュタインがこんなことを言っていたな、と思い出した。

アスペクトの表現とは、〔その視覚対象の〕把握の仕方の表現である。(したがって、扱い方の表現であり、ある技法の表現なのである。)しかしそれはある状態の記述として用いられる。

(Wittgenstein 1980:1024)

この「把握の仕方」という言い回しはなかなかわかりやすい。周辺のオブジェクトやそこでの行為との特定の関係性のもとで見なければ、それは単に妙なところに置かれた石/ブロックでしかなかった(もっとも、「妙な」という把握の仕方をしていること自体、それはまた特定の把握の仕方によるものではある)。しかし、特定の関係性のもとで見れば、石/ブロックをドアストッパーや重石として見ることができる。「〜として見る(seeing as)」という言い方には、他の把握の仕方がありえることが含意されるが、それは、可視野にあるさまざまなオブジェクトや行為との相互の関係性の変化を見て取れるということでもある(野矢 1988)。そしてそれは、この通路の例で言えば、見る場所を変えたことによって得られたひらめきであったことを考えれば、観察者の身体性も関連していることなのだ。

ともあれ、 結局のところ、この石/ブロックがドアストッパーなのか重石なのかはわからない。もしかしたら両方の機能を期待されているものなのかもしれない。そう考えると、この石/ブロックの配置は、2つのドアと緑のネットそれぞれにほぼ等しい距離に置かれている点で絶妙、と言ってもよさそうだ。

こんなことを考えているうちに、はたと気付くことがあった。それは、それぞれの把握の仕方に共通していることは、この石/ブロックが公共的性格を帯びたものとして理解されているということだ。

僕はこの石/ブロックを今までも、そしてこれからもそのままにするだろう。ドアストッパーや重石として使うことがあるかもしれないが、使用後は同じ場所に戻すはずだ。この通路を利用するほかの人たちもそうしているとなぜか期待できる。そうだからこそ、誰にも捨てられたり持っていかれたりせず、長くここに在るのだ。ある程度は誰にでも使用は開かれているが、勝手に捨てたり持っていくことは憚られる。なんの変哲もない石/ブロックに対してこうした扱いを可能にする置き場所というのがあって、それがまさにここだった。

 

参考文献

Wittgenstein, Ludwig, 1980, Remarks on the Philosophy of Psychology, vol. Ⅱ, G. H. von Wright and Heikki Nyman (eds.), Trans. C. G. Luckhardt and Maximilian A. E. Aue,Basil Blackwell. (=1988, 野家啓一訳『心理学の哲学 2』ウィトゲンシュタイン全集 補巻 2, 大修館書店).

野矢茂樹(1988)「規則とアスペクト:『哲学探究』 第II部からの展開」『北海道大學文學部紀要』36(2), pp.95-135.

「うまく見ることができない町内図」を見る、ということ

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壁に挟まれた町内図

山口駅から今市通りを抜け中央商店街まで行く途中にこんな「壁に挟まれた町内図」がある。ずいぶんといいかげんな仕事だなあと近くを通る度に思う。左のビルを建ててる間にどうにかできなかったのか。まあ外すのは面倒だろう。そして月日が流れ、左のビルが建つ。もうこうなっちゃうとさすがに外すのも一苦労でなおさら面倒そうだ。そんな面倒の積み重ねで残された遺物なのかもしれない。しかし、そこにあるのにうまく見ることができない町内図っていうのはちょっと面白いな。掲載されている店舗広告のうち、もう30数年は営業している「もぐらの里」だけは今もあるので、この町内図が設置されたのはまず過去30年の間であるに違いない。

しばらくこの「うまく見ることができない町内図」の味わいを楽しんでいると、ふと気づくことがあった。この町内図があることで、狭い隙間を挟んで並んで建っているビルのどちらが先に建ったのかを確信をもって言えるようになっているのだ。この2つのビルの来歴なんてまったく知らないのに。

こんなふうに、2つ以上の近接しているものに対して「Aが先でBが後」などと言えるとき、たぶん次のようなことを私たちはやっている。

  1. AとBをなんらかのかかわりあるものとして見た。グループ化したと言い換えてもよい。
  2. そのとき、たとえばAとBが隣り合っていると記述できるならば、そこに位置的関係性も見出してもいる「隣に」「左に」「右に」と言えるためには、その対象をそれぞれ別のものとして、しかし関わりあうものとして理解していなければいけない。
  3. 先・後と言えることからわかるように、そこに時間的秩序を見出してもいる。

別にこれはビルだけに当てはまる事例ではない。地層を見ると当たり前のように層が積み重なっていったのを見出すし、年輪を見ると少しずつ太くなっていった様を見出すと言う事例を考えるとよりわかりやすいだろう。そこで行われているのは、なんらかの「重なり」を見出すということだ。「重なっている」と言えるとき、そこでは個々の層をかかわり合う、何らかのひとまとまりのものとして見ている(「地層として見る」「年輪として見る」ということはまさにそういうことだ)。そして、同時に、「下から上へ」「中心から外縁へ」とう位置的関係性、そして、「誕生から現在へ」「これはこっちより古い/新しい」といった時間的秩序もまた見出すということもたいていはあわせてやっている(Gurwitsch(1964)のゲシュタルト心理学現象学的解釈の議論と、それに対するGarfinkel(2002)による「わざと誤読せよ」勧告の議論をみよ)。

冒頭の写真の2つのビルの話に戻ろう。先に、「3. 先・後と言えることからわかるように、そこに時間的秩序を見出してもいる」と書いたが、おそらくこれは、多くの場合ちょっと難しい「見え」だ。「うまく見ることができない町内図」が仮になかった場合を考えてみるとよい。

左のビルの方がやや現代的な体裁だから、たぶん左の方が新しいかな…と推測することはできるかもしれないが、絶対そうかと言われると、少し留保を置きたくなる。建築の素人の限界がここにある。しかし、「うまく見ることができない町内図」があるおかげで、かなりの確度をもって「左のビルの方が新しい」と言えるようになっているはずだ。そこには、町内図を設置しそれを通行人が見るという、かつてあった活動が誰しも見てわかるということが根拠としてある。誰しも等しく見られることが期待されるオブジェクトを、まさにそれを見ることが可能なはずの歩道に立って見ている僕が「よく見えない」「そもそも設置場所がおかしい」という経験をしている。こうした「おかしさ」として感受される「見え」は、まさにこの場所で見ていた僕に街の歴史的時間を理解させる資源でもあったということなのだ。

目の前にあるものに、位置的関係性・時間的秩序・そこでなされたであろう行為や活動を私たちはいとも簡単に発見してしまう。そして、その見立てはだいたい他の人とも一致する(と期待できる)。それは別になにかすごい能力なのではなく、まったくもって世俗的な能力だ。おそらく、ほとんどの人がこの見方ができるし、説明されれば「そりゃそうだろ」と言うだろう。そういう能力と、それとかかわるオブジェクトや出来事のかかわりとのありようを私たちは「公共的」と言う。

その「公共的な何か」は、一方で、冒頭の「うまく見ることができない町内図」のように、おかしなものをたくさん包含しているものでもある。しかしそれはまた、時間的秩序を発見する資源となったりする。街の歴史ーーと言うと大げさかもしれないが、そういう些細なことから、私たちは街のちょっとした歴史を日々の移動のなかで発見し、おかしみを感じ、夕飯時にちょっと話題に出したりするのだ。それはあまりに些細なことなだけに、誰も書き留めないようなものなのだろうが。

 

参考文献

Garfinkel, Harold. 2002. Ethnomethodology's Progra,. Lanham, MD: Rowman & Littlefield.

Gurvitsch, Aron. 1964. The Field of Consciousness. Pittsburgh: Duquesne University Press.

路上の持ち帰ってよいものと、そうでないもの

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畑の横に積み上がった石と、そこに置いてあった空きのペットボトル

仕事を終えての帰宅途中。姫山沿いの道を自転車で走っていたところ、ふとこれ(上の写真)が目に入ったのだった。ペットボトルがポイ捨てされている。気まぐれな善意を発揮し、拾っていったん大学に戻り、ゴミ箱に捨てた。

空きペットボトルを拾う前に、なんとなく写真を撮っておいた。たぶんガレキの山は畑だか田んぼだかの不要物で、ガレキ処分の日にゴミ捨て場に出す前に一時的に集められたもののように見える。その意味では、空きペットボトルと同じ「ゴミ」のはずなのだが、僕が「ゴミ拾い」の善意を向けたのは空きペットボトルだけだった。この区別がなんとなく面白いなと思ったのである。

この「モノ」の所有に関する区別とそれを可能にする能力の話については、ハーヴィー・サックスの議論を思い出す。ガーフィンケル の述懐によれば、サックスは1963年にこんなことを言っていたらしい。

1963年、サックスとガーフィンケル は自殺予防センターにいた。ある日、サックスはガーフィンケル のオフィスにやってきて、「ハロルド、僕は違い(disitinction)を見つけたよ」と言ったのだった。サックスは2年前にイェールのロースクールを終えたところだからか、彼の言う「違い(disitinction)」と言う言葉は当初は法学的なものに聞こえた。「僕はpossessablesとpossesstivesの違いを見つけたんだ。possessablesについては、こんな意味で捉えている…[略]…道を歩いている。そこで何かを見つける。それはなんだか良さげに見える。君はそれを欲しいと思う。で、それを持ち帰ることができる。[possessablesという言葉が意味するのは]君は見つけた何かをそのように見ているということだ。possessitivesについて、これと比較してみよう。道を歩いている。そこで何かを見つける。それはなんだか良さげに見える。君はそれを欲しいと思う。でも、手に入れたいと思ってそれを見ているだけで、手に入れることはできない。それは誰かのものだと君は見ている。これを僕はpossessitiveと呼ぼう」(アンダーラインは筆者による)

(Garfinkel and Wieder 1992, 185)

 そしてサックスは、ロサンゼルス警察の警察官が巡回中に遺棄された車と違法駐車をしている車を区別し、前者についてはレッカー車による移動の手続きを、後者については違反チケットを貼る作業をしていたことを報告する。サックスは、警察官がpossessablesとpossesstivesを彼らの業務の中でなんらかの証拠に基づいて区別していることに注目し、その面白さに興奮したのだった。

この報告の4年後、サックスは1967年の講義でpossessablesとpossesstivesについてより深い議論をしている。警察の事例は「専門的能力」により可能になる区別事例として読むことができるが、1967年当時のサックスは、この区別する能力を「日常的なもの」へと拡張している。たとえば、テーブルの上に本を置いておくとどうか。それを見た人は、その席には先客がいると見るはずだ。サックスは、昨日の新聞だったらどうか、とか、鉛筆だったらどうだろうか、と問う。それに対する人びとの振る舞いを見ることで、possessablesとpossesstivesの区別と認識可能性のありようを観察することができるのだ、と(Sacks 1992, 608)。

また、こうした能力を身に着けることは、子どもの教育と社会化の問題ともかかわっているとサックスは述べていた(Sacks 1967, 608-9)。子どもは本当にいろんなものを拾ってくる。僕も、自分のおもちゃ箱のなかに拾ってきたいろんなものを詰め込んでいた記憶がある。うちの2歳の子どもも、道端にあるいろんなものを触るし、拾い上げる。時には、そこから持ち帰ろうとすることすらある。そのたびに「これはよそのおうちのだから触らないようにしようね」とか、「置いて帰ろうね」と諭している(まあ、2歳なので、どこまで伝わっているかはわからないのだが、根気よく言い続けなければいけないのだ)。その辺の石ころなら黙認することもある。都市生活者として、possessablesとpossesstivesを区別する能力を身につけることは、非常に重要なことなのだ。だから、親は子に事あるごとに教え込む。それは教えればたいていのものに対してはできるようになるし、使うことができる…と期待されるような、日常生活において修得が当然視された「ものの見方」なのだ。

さて、ガレキの山と空きペットボトルに戻ろう。両方とも同じゴミだと僕は見たのだが、ガレキの山には手を触れなかった。それは、畑の持ち主の存在をそこに見たからだ。おそらく、この山を作ったのは畑の持ち主である。しかも、これは「正しく」捨てられてはいない。あくまでも「一時的に」にここに積まれている(ように見える)。明確に所有者を推測することができ、かつなんらかの作業の途上にあって、そのアクセス権が自分にはない。そういうものにはおいそれと手を出すことができないし、出さないほうがよい。そういうルールがあることを僕はなぜか知っている。

ここにゴミとしてあるのはガレキと空きペットボトルしかないのだが、ガレキは明らかにここに意図的に集められている形跡が見て取れるのに対して、空きペットボトルはただ1つぽつねんと置かれているだけだ。ゴミの集合という観点から見れば、明らかに空きペットボトルはこの場においては「異物」に見える。「集合」を見て取れるということは、それに対する異物を見つけることができるということでもある。もし、種々様々なゴミがここに置かれていたとしたら、僕は手を出すことができただろうか。たぶんできなかったのではないか。この畑の所有者が、野焼きするためにここに集めた、と見たかもしれない。「ひとつしか置かれていなかった」し、それが「畑の所有者によるものではない」と見たから、勝手に拾い、勝手に捨てることができたのだ。

ほかにも興味深いことがある。この空きペットボトルが畑のなかに置かれてはいるが、道路側近くに置かれていたということは、僕が「拾って」「捨てられた」という事実において非常に重要だったと思う。なぜなら、畑は私有地の可能性が極めて高いのである。私有地はおいそれと他人が侵入してよい場所ではない。実際、空きペットボトルが山側にあったら僕はそれを拾えただろうか?おそらく、かなり躊躇したのではないだろうか。つまり、手の届く範囲でしか、僕の善意は私有地では発揮できないということだ。もっとも、足を踏み入れてはいないものの、空きペットボトルは私有地に置かれているのだから、侵入してはいるのだが、こと「畑」においては、なんとなくこのレベルなら「許される」と思っている。

都市の清掃ボランティアの様子を観察してみると、どうやら多くの人は、公道と私有地の境界とその侵犯については、僕と同じ理解をしている人が多いようだ。ただし、どこでも空間侵犯ができるという訳ではなくて、玄関前とか庭と見なされるような場所は、空間的な侵入もかなり厳しく制限している。私有地と公道の境目に壁があれば、せいぜい壁の上ぐらいまでが「触ってよい場所」である。つまり、possessablesとpossesstivesの問題は、その「モノ」自体だけではなくて、それが置かれている空間理解の問題という側面もあるということだ。

これは「公道の落し物」についても同じことが言えそうだ。落し物は、ただ落としただけでは不法に投棄されたゴミと区別がつかない。しかし、それを拾った善意の人が落とし主が見つけやすいようにどこかに置き直した場合、たいていは邪魔にならないように、一方でそれとしてわかるように置くことで、ゴミには見えないようにする(栗波他2018; 浦上他 2018)。このとき、それが置かれている場所はいろいろなのだが、そのひとつに、公道と私有地の境界あたり(塀の上とか、フェンスに引っ掛けてとか)に置くという解決法が技法としてあるのだ。

「所有」に関する日常生活者の観察と推論の問題。ちょっとした散歩でもいろんなことを見つけることができるし、それを手かがりに探求することができる。半径5メートルのフィールドワークは、お手軽だけど、結構深いのだ。

ちなみにこの写真を撮影したのはちょうど1ヶ月ぐらい前のことだが、今日見に行ったところ、まだこのガレキの山はあった。処分するつもりはないのかもしれない。石の配置はほとんど変わっていなかったので、そもそも誰もこれに触れてはいないようである。それ以外のゴミは置かれていなかった。あと、休耕中の田んぼなのか畑なのかよくわからなかったが、現在はとうとうと水が入っており、ここはどうやら田んぼだったようだ。

 

参考文献

Garfinkel, Harold and Wieder, Lawrence., 1992, "Two Incommensurable Asymmentrically Alternate Technologies of Social Analysis," In Graham Watson and Robert M. Seller, (eds.), Text in Context: Contributions to Ethnomethodology, Sage, pp.175-206.

Sacks, Harvey., 1992, Lectures on Conversation, Basil Blackwell, pp.605-609

栗波他(2018)『あいまいなものの観察:2018年東京編』

浦上他(2018)『あいまいなものの観察:2018年文庫版』

曖昧な文の明確な理解

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「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていただきます」

ゆめタウン山口のメイン入り口前の駐車スペースまわり4、5台分のスペースにいつからかそれぞれ1つずつ青いコーンが置かれ、それにこんな文言が書かれた張り紙が貼られている。

「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

上の写真の側溝鉄蓋のあたりで一瞬立ち止まった時に目に入った(写真は入り口の反対側から撮ったものだが、この対面にも同じように空きスペースがあり、そこに同じ張り紙が貼られた青いコーンが置かれいた)。ふうん、そうですか。特に疑問もなく、自転車を押しながら横断歩道を渡った。

一時停止線でしっかり停まったとしても、入り口から出てきて横断歩道を渡ろうとする人の姿は車の運転手からはたしかに見えにくそうだし、飛び出してきたらすぐには対応できなさそうだ。以前に結構危ないことがあったのかもしれない。駐車場を作ったときはこんなことは想定してなかったんだろうな。参与者の導線と視界を想定した設計はやっぱり重要だよなあ。講義で使えるかもしれないし、写真でも撮っておくか。そして、横断歩道を渡ったところでパチリと写真を撮り、そのまま買い物袋を下げて自転車にまたがって帰ったのだった。

何日か経ったあとにこの写真を見返す機会があった。張り紙の文言をあらためて読むと、一見読みが定まらない曖昧な文章なのではないかと思った。

  1. 「(車の運転手が)横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」
  2. 「横断歩道を歩く人が(走ってくる車が)見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

どちらが正しいだろうか。駐車禁止と言っているのだから、車の運転手に宛てていることは間違いないとは思う。もしそうなら、「見えなくなる」という状態変化の主体は「車の運転手」だと読むように導かれるだろう。車がここで停まってしまうと、後から走ってくる車の運転手は横断歩道を渡る歩行者の姿が停車している車の影に隠れて見えなくなってしまうのだ。したがって、「(車の運転手が)横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」と読むのが正しいはずだ。ちょっと時間をかけて考えればわかることだ。なんだ、そんな難しい話ではなかった。

しかし、待てよ、である。しばらく眺めているうちに、もうひとつの事実にも気が付いた。それは、あの場にいた僕自身はこの文言に曖昧さを感じていなかったということだ。そこにいた僕は端的にわかってしまっており、一方で後からそれを振り返る僕は少し時間を要した。そして、文章に曖昧さを見出した。この間には、「曖昧な文章の理解」をめぐって何か決定的な違いがある。

あのとき僕は特に何かを考えることもなく、側溝鉄蓋のあたりまで自転車を押して歩き、車が来ていたのを横目で何となく確認したので立ち止まった。ふと顔を上げると、空きスペースに張り紙が貼られた青いコーンがあり、その文言を読んだ。車の往来がなくなったのを確認して横断を歩道を渡り、パチリと写真を撮って帰った。一連の流れはこうである。

立ち止まった時にようやく存在に気づき、読んだ。最初に目に入ったのが、赤字で強調されている「駐車禁止」の文字だった。この文字列で注意書きであるとすぐにわかった。注意書きはたいてい、誰に宛てているのかを明確には書かない。禁止する行為または活動だけが書かれていることがほとんどだ。どうやら禁止されているのが駐車であるようだ。ならば、この注意書きの宛先は駐車をする人、すなわち車の運転手で間違いない。だから、歩行者としてこの環境にいた僕には、張り紙冒頭の「横断歩道を渡る人が」の「横断歩道を渡る人」が主語であるという読みの可能性すら浮かばなかったし、一読して自分に宛てられているかも、とは思わなかった。それゆえの「ふうん、そうですか」である。

「端的にわかってしまう」ということはおそらくこういうことなのだ。その環境に実際に身を置き、風景の一部として存在するということによって、周りの事物をその環境に身を置く自分とのかかわりから見ようとする、あるいはそういうことがまったく自然にできるということだ。歩行者としてその場に立ち、買い物を終えて帰宅しようとしている活動に従事中で、かつ自身の知覚の指向性が一定方向を向いていること。こうした条件のもとで自身に向けられているかもしれない注意書きを読むということと、その環境・時間から離れてそれを読むということのあいだには、利用できる資源と読むという活動に費やすことができる時間に大きな違いがある。

だからといって、当事者性を薄めて(あるいは脱して)じっくり見て考えるということが無駄かというと、まったくそういうことではない。ありえた読み、ありえた選択、ありえた導線、ありえた推論、利用できた資源…これらをひとつひとつ発見し、「どれも実際には選ばれなかった」ということ、このことを確認することは、実際にそこで起きていたことの見通しをよくする方法のひとつだ。その意味で、「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」という文言のみを取り出してあれこれと考えることはあまり意味がない。

ところで、注意書きの宛先、つまり禁止指定された行為または活動の主体は表現上省略されることが多いと先に述べた。「駐車禁止」「ボール遊び禁止」「不法投棄禁止」「私語は謹んでください」…などなど。仮に特定のカテゴリーの人びとを想定していたとしても、それをことさら言及する必要がないという点で、管理側からすればとても都合のいい方法だと言えるだろう。排除アート(Hostile architecture:これ、「アート」って訳をあてるのはどうなのかなっていつも思う)も同じ仕掛けがあると思うのだが、「特定のカテゴリーの誰か」に直接言及しない、あるいは「この行為をする可能性がある人すべてに宛てているので、別にあなただけを排除しているわけではない」というエクスキューズを可能にするという点でほんとうによくできていると思う。

行為または活動の記述のみによる「禁止」は、それをしようとする人にだけ当事者性をもって読まれる/聞かれるものだ。だから、それを読んだ/聞いたとしても、自身には該当しない人には問題視されにくい側面があるのだ。 

「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

という注意書きを見て腹を立てるのは、これまでの経路のうちに空き駐車スペースを発見できずにいるなか、このスペースを見つけて車を寄せてみたら駐車禁止の張り紙が貼られているのを見た車の運転手だけだ。歩行者や店の人は、この空間を「ほぼ満車であるなかの空きスペース」として認識することはまずないだろう。「無駄なスペース」と認識することはあるだろうが。