生活の観察

Reasoning in the Wild

「切りたい」から「お手伝いしたい」へ:幼児の「社会参加の技法」の習熟

台所でコマコマと家事をしている僕のところにときどきやってきて、「なにかお手伝いしたい」と四歳児が言う。もっと具体的に「お皿一緒に洗いたい」と言うこともある。包丁なんかを洗っているときは「ちょっと包丁が危ないからなあ」と僕が返したりすることもあるからか、先んじて「お皿洗うの見たいだけ」と言ってくることもある。

ついこのあいだまで、自分がやりたいことをそのまま表現していた。たとえば「お皿洗いたい」「切りたい」「(炊飯器に)お米入れたい」とか。それがいつしか「お皿一緒に洗いたい」「なにかお手伝いしたい」と、目の前で行われている作業に対する理解と四歳児と僕の関係を読み込んだ表現になっていたのに気付いた。

特に「なにかお手伝いしたい」は興味深い表現だ。台所仕事は分類しようと思えばいくらでも細分化して表現できるし、目的によってその工程もさまざまだ。しかもその工程は我が家の台所の設計や道具の配置に最適化とは言わないまでも、適応させた独特のものだ。それは、我が家の生活サイクルともかかわっていて、15時に台所に立ってやる「おやつの準備」の作業と17時にやる「夕飯作り」の作業とは、似通っている部分はあっても、細部はまったく違う。なんなら、昨日の「夕飯作り」の作業と今日のそれもまた同じではない。

その意味で、ひとつひとつ目の前の作業を適切に表現するのは大変だ。でも、幼児でもできる方法がある。それは、目の前でいままさに行われている作業を単純な動詞と願望を示す「〜たい」を組み合わせてを使って表現することだ。「切りたい」「洗いたい」「入れたい」…これらは、作業工程など複雑なことを一切理解していなくても言える。それに対する親の反応は、基本的にはyes/noだ。代案を示すこともあるが、この発話形式は、指示された特定の対象に対する許諾をまずもって要請するものになっているからだ。

さらに言えば、このような幼児の要請の表現形式は、幼児が目の前の作業の「目的とプロセス」についての知識がないか、それを適用させることができていないことを親に推論させる資源になることもある。だから親は要請に対するyes/noを述べつつ、たとえば「切る」という作業がいかなる目的とプロセスに位置付けられているものなのかを教示することもある。「いま麻婆茄子作ってて、ニンニクと生姜をうんと小さくたくさん切って胡麻油で少し炒めてからナスと豆腐を入れたいんだけど、もうナスも豆腐もニンニクも切り終わっちゃって、あとは生姜だけなんだよね。でも生姜をうんと小さく細かく切るのはまだ君にはちょっと難しいからね」といった具合だ。

ではそれと比べて「何かお手伝いしたい」はどうか。まず指摘できることは、これは他人がやっているすべての作業に対して使える表現だということだ。具体的な作業を指示しないことによって、「何か」の部分に何が入りうるかを親に委ねる形式になっている。これは非常に巧妙だ。お手伝いの対象になりうるものはいくらでもあるからだ。親は「何か」に該当しうることが現状の作業のなかにあるかどうかをいったん考えて返事しないといけない。

もうひとつ指摘できることがある。それは、相手の活動に加わろうとする態度がそこに含まれていることである。そこには、おそらく以下2つの理解が含まれている。

  1. 眼前の親が従事している作業が、なんらかの目的とプロセスのもとでなされている活動の部分であることそれ自体への理解。ただし、活動の目的とプロセスに対する理解が不十分であっても問題にはならない。
  2. その活動に何者として関わっていくかということ、すなわち当該活動における適切な人間関係のあり方への理解。お手伝いの申し出は、従属的なかかわり方を含意している。

こうして考えてみると、「なんかお手伝いしたい」は、「切りたい」「洗いたい」「入れたい」という欲求そのままの表現と比較して、四歳児はずいぶんと高度なことをやっているようにみえる。

「お手伝いする」という表現の面白さについて、ハーヴィ・サックスは講義録で次のように述べていた。ちょっと長いが引用しよう。

動詞の使い方で不思議なことがある。昼食会に行って、そこでお給士してくれる人に出会ったとしよう。彼らは自分たちがやっていることについて、「私はXを手伝っています("I'm helping X.")」と表現するだろう。つまり、「Xを手伝っている('helping X')」というのは、実行可能な仕事の範囲に対する操作なのである。もしXが主人役を務めているとしたら「X氏を手伝っている」ということになろうし、Xが皿洗いを指すなら「Xを手伝っている」ということになるだろう…など、あなたが報告することは、あなたがやっていることがどのような経緯でそうするに至ったのかということで、その点であなたがやっていることははっきりしているのだろう。皿を洗っているのか、給仕しているのか、それとも他のなにかをやっているのか、人びとはあなたがやっていることを完璧に見ることができる。そしてあなたが報告するのは、誰かの責任を参照することにより、あなたがどのようにしてそれを行うに至ったのかということだ…[略]…この類の言葉は、たとえばあなたがやっていることの記述はあなたを見ている誰かによって観察可能ではないということ、このことを含んでいることが興味深いのである。つまり、もしあなたが記述することになったら、「昨日私は皿を洗った( "Yesterday I washed dishes. ")」ではなく、「昨日メアリーを手伝った("Yesterday I helped Mary")」とするだろう。

( Sacks 1992, 150 ※下線と太字は筆者による)

サックスの言い方はもってまわっているが、もう少し噛み砕いて述べると、次のようなことになるだろう。スナップショットを見たときのような記述の仕方がある(=「昨日私は皿を洗った)。一方で、スナップショットを見たときのような記述に含まれた情報は提供せずに、特定の活動における他者とのかかわり方であるとか、その中での責任と義務の不均衡な配分の存在、こういったことを情報として含む記述の仕方(=「昨日私はメアリーを手伝った」)がある。両者は記述としてどちらも間違っていないし、両立するが、その含意するところが異なる。動詞の使い分けは、こうしたことを可能にしている、ということだ。こうしたサックスの思索は、引用した箇所では代名詞の使用や、代名詞を文字に置き換える論理学の実践への(批判をにじませた)言及まで展開するところで尻切れトンボで終わるのだが、ひとまずそれは置いておこう。

私たちの社会には「お手伝い」のように、他者との特定の関係のあり方を読み込みことが可能で、かつ個別的に見ればそれぞれ異なる実践に対して適用可能な言葉とその用法が山ほどある。いつどのタイミングでそうなったのかはわからないが、四歳児がそれを使うことができるようになったこと、このことに本当に驚いたのだった。

社会参加の技法に習熟していくこと、おそらくこうしたことが大人になるということの道程なのだろう。その技法的習熟度合いをもって私たちは他者の「能力」を推し量ることもできる。「切りたい」から「なにかお手伝いしたい」への変化に対する驚きは、四歳児の社会参加の技法的習熟に対するものだった。四歳児に対する「ずいぶん成長したんだなあ」という感慨は、こうしたことからもたらされている。あのときの僕の驚きを省察すると、おおよそこういった感じになるだろうか。

子育て中だということもあって、最近心理学や人類学の子どもの発達についての研究論文を趣味的にちょくちょく読む。有名どころでは、乳幼児による「お手伝い」は内在的動機によるもので、外的報酬はかえってその内在的動機を弱めてしまうことすらある…といった実験心理学的研究がある(Warneken and Tomasello 2006)。これは心理学の実験による成果だが、WEIRD(Western Educated Industrialized Rich Democratic Societies)社会以外での「子ども」を対象とした人類学の民族誌にも、ワーネケンとトマセロの主張を支持する記述をたくさん見つけることができると人類学者のランシーは述べている(Lancy 2020)。

こうした成果はいずれも興味深い。幼児期の「お手伝いしたい」という気持ちがむくむくと湧き上がってくること、このことは人類に共通してみられることなのだと言われると、たしかにうちもそうだわ、と思う。実際、うちの四歳児も「お手伝いする」を連発している。しかし、ここまで述べてきたことは、子どもの本質論以外の論点を示すものでもあったように思う。

ここまで見てきたように、「お手伝い」という言葉の使用は、社会、すなわち他者との共同生活に適切に参加する技法のあり方の一端を示すものだった。僕は、四歳児の振る舞いと言葉の用法から、自分自身がすでに使いこなしていて、その意味でいちいち注意が向けられないような「社会参加の技法」をあらためて特定し、記述する機会を得ることができたということでもあるだろう。

ほんと、子育てとは社会について知ることでもあるとはよく言ったものだ(そこでの用法とはだいぶ違っているけれども)。

 

参考文献:

Lancy, David., 2020, Child Helpers: A Multidisciplinary Perspective, Cambridge University Press

Sacks, Harvey., 1992, "Fragment: Verb uses; 'A puzzle about pronouns'." Lectures on Conversation, VoL.1&Ⅱ, Blackwell Publishing, 150-154.

Warneken, Felix and Tomasello, Michael., 2006, "Altruistic Helping in Human Infants and Young Chimpanzees." Science 311(5765), 1301-1303.