生活の観察

Reasoning in the Wild

見えないものを(一緒に)見る力

列車のシールがたくさん貼ってあるシートを持ってきて、「どれがいい?」と四歳児が聞くので、僕は「ドクターイエローがいいかな」と返事をした。それに対して特にアクションもなく、四歳児はどこかに行ってしまったが、特に気にもとめずにスマホをいじっていた。少しして四歳児が再び僕のところにやってきて、「はいどうぞ」と一枚の紙を渡してきた。

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そして、「すごーい、伸びちゃった!」と言ってきた。「透明なの?」と聞くと、「うん」と言う。紙を見つつ「すごーい、伸びちゃった!」を聞いた僕は、

  • 黄色い電車の先頭車両のシールが左右一直線上に貼られていること
  • 右の先頭車両の左横に同じく黄色い車両のシールが貼られていること
  • 左の先頭車両と、右の車両の間がけっこう空いていること
  • (1)直前のやり取り、(2)車両の色、そして(3)これらのシールが一直線上に貼られていること、以上よりこれらのシールと「左の先頭車両と右の車両間の空間」をひとまとまりのもの、すなわちドクターイエロー全体であること

以上をすぐさま理解した。そのうえで「透明なの?」と「左の先頭車両と右の車両間の空間」について質問し、四歳児は「うん」と答えた。

なるほどこれは「非感性的完結(amodal completion)」されたものが四歳児にも「見える」ようになったということだ。非感性的完結とは、隠された部分は直接的に見えるわけではないが、完結したまとまりをもったものとして知覚されることに与えられた知覚心理学の表現だ。

どうして四歳児に見えないはずの「車両」が見えるようになったのだろうか。山口では電車を利用する機会がそう多くないこととコロナ禍であることが相まって、四歳児は実は電車は数えるほどしか乗ったことがない。しかしテレビで電車を見る機会は多い。そこで電車の形状を把握したのかもしれない。山口線の電車は最大四両編成(宮野駅以降は二両編成)で、それを電車の標準的車両数だと捉えているから「すごーい、伸びちゃった!」なのかもしれない。ともあれ、学習の経緯や内容はよくわからないが、四歳児が電車の形状について何らかの知識をもっているということは間違いないだろう。

「知っている」ことが見えないものを見えるようにした。これはわかりやすい説明だ。たまたまノエの『知覚のなかの行為』を読んでいたので、このことについて簡潔に説明した箇所を引用しよう。ノエは知覚における信念説について次のように述べる。

監視柵の向こう側に猫が動かずに座っている。厳密に言えば柵越しに見える猫の部分を見ているだけであっても、あなたは猫が現前しているという感覚を持つ。このように私たちが知覚経験を猫全体のものとして享受できるのはどうしてだろうか?…[略]…この現象の説明を試みる一つのやり方は、猫やびんをまとまった全体として経験するためには、びんとは何であり、猫とは何であるかについての知識を活用することが必要であるということを、よく知ることである。あなたは自らの概念的技能を行使する。

(Noë 2004=2010. 92)

これについてノエは「このことは疑いなく正しい」としながらも、次のようにコメントする。

…私たちが欲しているのは、例えば、びん全体があそこにあるとか、猫全体があそこにいるという私たちの思考、または判断、あるいは信念についての説明ではないからである。私たちが欲しているのは、それらが現前するという私たちの知覚感覚についての説明なのである。

(Noë 2004=2010. 92-3)

ここからノエは知覚のエナクティヴ・アプローチを主張するのだが、その中身について云々することはここでは課題ではない。注目したいのは、思考的現前にせよ、知覚的現前にせよ、いずれにおいても個人の問題として検討されているということだ(ちなみにノエは「意識は頭の中にある」という考え方を批判している)。ノエのこの立論自体がおかしいと言っているのではない。ここでは、知覚とは個人の問題として捉えられている現象だということだけ押さえられればよい。

さて、ここで考えたいのは、「知覚を個人の意識の問題」として考えること、そのことである。先に僕は「どうして四歳児に見えないはずの「車両」が見えるようになったのだろうか」という問いを立てた。このような問いを立てたので、おのずと思考は四歳児個人の問題に向かった。しかし、ふと立ち止まって考えるに、「この問いを立てる僕」のことをなぜ一緒に考えないのか、とも思うのである。四歳児個人に思いを馳せるきっかけは、四歳児と僕とのやり取りだった。にもかかわらず、関心は「やり取り」に向かわず、四歳児の意識に向かってしまうのか。

その要因自体はよくわからないけれども、たしかに僕たちは「見てわかるもの」よりは、「見えなくてよくわからないもの」につい目を向けてしまう。子どもが何を考えているのか。何を欲しているのか。こういったことを親は知りたいので、親として振舞っている限りは、そもそもそっち方向に関心が向くということはあるだろう。

あるいは、私秘的なものがもつ独特の魅力も関係あるのかもしれない。「わからない」ということは問いであったり、非難であったり、戸惑いであったりする。これらはたいていは「いつもとは違う」とか「ふつうではない」といったことと結びついている。特別な状態や経験であることはたしかだが、それが何なのかわからない。こうした踏み込めなさへの突然の出会いに何らかの感慨を抱くということはあるだろう。

しかし、ここでこの思索は止めたい。わからないことはわからない。他人の意識に関心が向く理由がわかったところで、それは四歳児の意識がどうであるかという問題を解決しない。ここで考えたいのは、この問いに取り組むということではなくて、「知覚を個人の問題として考えること」、このような問いそれ自体である。もう一度書くと、この問いが生じたのは、たしかに四歳児と僕とのやりとりにおいてであった。このやりとりにおいて、四歳児が何をどのように見たのかかなりのことがわかったし、実際やり取り自体はとてもスムーズで、なんらトラブルは生じていない。しかし僕の関心はそれ自体には向かわず、むしろそれを資源として「なおもわからないこと」へと勝手に向かったのである。端的にわかってしまうことは、「なおもわからないこと」がそれとして「わかる」ための資源である点で基盤的なものであるが、それゆえに特段の焦点が当たらないものでもあるのだろう。このことについて考える際に、次のエピソードが参考になる。

アニマシー知覚の古典であるHeider & Simmel(1944)*1に対して、メイナードが「とにかくもう一歩のところまで現象に近づいて、現象を失う(come so, so close  and lose phenomena)」(Garfikel 1996, 16)と述べたというエピソードである。

Heider & Simmel(1944)の概要はおおよそ次のとおりである。被験者を3グループに分け、第一グループは34人、第二グループは36人、第三グループは44人。それぞれ下記の動画*2を2度見せる(第三グループのみ、同じ動画を逆にして見せている)。動画を見せる前に簡単な説明をし、視聴後に動画に対する質問に対して記述課題を与える。その際、動画に対する質問を制限なしで受け付けている。


www.youtube.com

第一グループには、「このピクチャーで起きていることを書いてください」という課題を与えている。第二グループには、動画中の図形の動きについて人間の行為として解釈するように指示を出した上で、10の質問を与えている(例:「小さな三角形はどんな人ですか?」「この動画のストーリーについて書いてみてください」など)。第三のグループには、先の10個の質問のうち4つを抜粋して取り組んでもらっている。

結果は、第一グループは1名を除いて、第二グループは全員、第三グループは2名を除いて、人間の活動に置き換えて解釈していたということである。その特徴は、動きの起源を図形のユニットやその動機に帰属させることだと述べられている。なお、この論文では「知覚」という言葉を、一連の受容体が何らかの刺激にさらされたあとに生じる認知プロセスすべてを含んだ「認知的反応」という意味で用いている。だから、解釈もまた認知的反応であり、知覚だとされている。

メイナードはこの実験と分析に対して「現象を失う」と述べているわけだが、どういうことだろうか。それは、被験者が知覚したものを語ることそれ自体の組織が中心的に問われていないということを指している。機能的意味付けを行うこと、時間的秩序のもとでストーリーを展開すること、出来事の展開を関連付けて順序を作り上げること…こういったことをすることが、知覚現象なのではないか、と言うのである。

ハイダージンメルからすれば、人間の活動に置き換えて記述した被験者と、幾何学的な語彙で記述した被験者は異なっている。後者は「例外事例」であり、前者は数的優位性があるという点で「一般事例」として特徴付けられている。ハイダージンメルは、被験者の記述を示し、それを詳細に分析する。それはたしかに、メイナードが言うところの「機能的意味付け」「時間的秩序のもとでストーリーを展開すること」などに照準されているのだが、最終的には、多くの被験者の記述に共通する特徴、すなわち「動きを人の行為という観点より組織することが、環境の不変性と結びついていることと」と、「幾何学図形の変化の一連のシークエンスを理解するためには、動機の観点から見られる必要があること」、以上を取り出す方向へと向かう。

こうした議論の流れにおいては、(このことはメイナードは指摘していないが)例外事例として示された知覚の記述それ自体の内生的な秩序が、「一般事例」と同じように分析されることはない。しかし、次の例外事例とされた被験者による記述の引用を読んでもらえばわかるように、人の活動や動機に帰属させずとも、動画中で何が起きていたのかはわかる(部分的に描写が間違っているところもあるが)。

大きな三角形が長方形のなかに入っていく様子が示されています。長方形のなかには出たり入ったりするたびに、長方形の角と一辺の半分が開口部になります。そして、もうひとつの小さな三角形と円が登場します。大きな三角形が中にあるあいだに、円は長方形のなかに入ります。2つの図形が回転状に動き、そして円は開口部から出て小さな三角形と合流します。その後、小さい三角形と円は一緒に動き回っていて、そして大きな三角形が長方形が出てきて小さい三角形と円に近付くと、小さい三角形と円と大きな三角形は長方形のまわりをぐるぐると高速で動き、消えていきます。いまや一人になった大きな三角形は、長方形の開口部のあたりで動き、最後に開口部を通って中に入ります。彼(原文ママ!)は内部で高速に動き、開口部を見つけられず、側面を突き破って消えていきます。

(Heider and Simmel 1944, 246)

後半部分から少し人間の活動になぞらえて記述しているが、おおむね幾何学的語彙で記述していることがわかる(論文中では説明はないが、おそらく「原文ママ!(sic!)」は論文の著者らが書き加えたものだろう)。そしてこれはこれで、図形の動きを捉え、その展開を記述するものとして何らおかしいものではない。

さらに、とメイナードは言う。「知覚、意識、認知といった言葉で要約的に語られるこれらのプロセスには『もっと(more)』何かがあったのではないか」(Garfikel 1996, 17)と述べる。たとえばゲシュタルト図を扱う教室内では、学生と教授の共同的活動の流れのなかで産出し注目する公的な記述を切り離すことはできないのだ、と*3

さて、いささか遠回りしてきたが、Heider & Simmel(1944)をめぐるこの議論は、先の「透明な車両」をめぐる四歳児と僕とのやり取りと、そこからの僕の思索を再考する際に参考になる。

先に、紙を見て僕自身が理解したことについて、以下のように列挙した。

  • 黄色い電車の先頭車両のシールが左右一直線上に貼られていること
  • 右の先頭車両の左横に同じく黄色い車両のシールが貼られていること
  • 左の先頭車両と、右の車両の間がけっこう空いていること
  • (1)直前のやり取り、(2)車両の色、そして(3)これらのシールが一直線上に貼られていること、以上よりこれらのシールと「左の先頭車両と右の車両間の空間」をひとまとまりのもの、すなわちドクターイエロー全体であること

しかしこれもやはり、「これらを可能にしたもの」をいくつも見落としている。たとえばそれは、好みの電車のシールを選ばせるという活動を前置的に行うという順序立てた活動の組み立て方。紙を見せるという四歳児のものの扱い方。共同注視を可能にする手続き。「すごーい、伸びちゃった!」という発話に対して、「透明なの?」と対象の同定と特徴づけを同時するやり方。こういったことが非常にうまく組み合わされていることによって、お互いに同じ対象について「見て話す」ということが可能になっている。そしてその流れのただなかにおいて、四歳児と僕双方の対象の知覚のありようがある程度共有可能にもなっているのである。こうしたうまいやり方で「見てわかる」ようになっているから、個人の意識が実際にどのようになっているかは、この活動の組織において、「見てわかること」以上のことが特別問題にはなっていないのである。つまり、活動のなかで問題になっていないことを僕はつい気にした、ということだ。

もっと、この「特別問題にはなっていない」ということの合理性と精緻さに驚いてもよい。それほど僕たちはすごいことを、瞬時に、即座にやってのけている。ぼんやりしている39歳の僕と、まだ世界について学び始めたばかりの四歳児でもそうなのだ(自己肯定感があがる!)。

もしかすると、こういうことを言うと、個人の意識の現前に興味がある人からは、ノエよろしく「私たちの思考、または判断、あるいは信念についての説明ではなくて、私たちが欲しているのは、それらが現前するという私たちの知覚感覚についての説明だ」と言われるかもしれない。

これはこれで大事な議論だとは思うのだが、知覚という現象を他者と共に在るなかで観察しあっている対象としてみようとするならば、その方向性は取らない方がよい、という判断になるだろう。

見えないものを見る力は、何かがそもそも「見てわかる」ことに支えられているし、何が見えないということ自体「見える」ということだ。性急に「見えない」ことに向かっていく前に、探求できることはほんとうにたくさんあるのだ。

 

参考文献:

Garfinkel, Harold. 1996. "Ethnomethodology's Program." Social Psychology Quarterly, 59(1). pp.5-21.

Heider, Fritz. 1983. A Life of a Psychologist: An Autobiography. University Press of Kansas(=1988, 堀端孝治『ある心理学者の生涯』協同出版).

Heider, Fritz and  Simmel, Maryanne. 1944. "An Experimental Study of Apparent Behavior. " American Journal of psychology. 57:243-259.

Maynard, Douglas. 2006. "Cognition on the ground." Discourse Studies, 8(1), pp.105-115.

Noë, Alva. 2004. Action in Perception. MIT Press.(=2010, 門脇俊介・石原孝二監訳『知覚のなかの行為』春秋社).

*1:共著者のMarianne Simmelは社会学ジンメルの孫娘であり、のちの認知神経科学者。ハイダーがスミス・カレッジで教鞭をとっていたときの学生とのこと。「私の学生ははかわいく明るい4年生の女子学生であったが、大抵の女子学生は心理学よりもボーイフレンドに大変関心が強かった。スミス・カレッジではほとんど卒業論文を書くものがいなかった。そして私の関心ある考えに興味をもったM. ジンメルのような学生はまれであった」(Heider 1983=1988, 155)とのことである。

*2:この動画はニューヨーク市立大学ヨーク校の社会心理学者、William Ashtonによってクリエイティブ・コモンズライセンスが適用されている。

*3:このエピソードはGarfinkel(1996)ではMaynard(1995)からの引用として書かれているが、Maynard(1995)は未刊行。ただし、このエピソードに該当する分析は、Maynard(2006)で展開されている。