生活の観察

Reasoning in the Wild

ルールを破っていいのは誰なのか

5歳児と近所の博物館に行った日のこと。暑いなか電動自転車の後ろに5歳児を乗せ、きゅうきゅうと軋む車輪の音を聞きながら坂を登り、目的地の駐輪場に到着した。さて降りてくださいな。あ、建物のなかに入るからマスクつけとこうな。暑いけどな。そういう僕の話を聞いていたのかいないのか、5歳児は「中に入ってはいけませんって書いてある」と言った。視線の先を見ると、なるほどたしかに「危険! 進入禁止 中に入ってはいけません」と書いてある。

危険! 進入禁止 中に入ってはいけません

読めるぞとなったらなんであれ目につくものを端から声に出して読んでみてそれを親に報告する。こうしたことは5歳児の常である。だから、この発話が何かの前置きであるとも思わず、僕は「そうだねえ」と気のない返事をしてこのやりとりを終わらせようとした。

しかし今回はそうではなかった。「中に入っちゃだめなのに、中に自転車がある」と言うのだ。囲いの中に自転車があるからには、誰かが入ったに違いない。でも、中に入るのはだめって書いてある。ならば、これはよくないことなのではないか、ということであろう。

言われてみればそのとおりなのだが、一方で、僕はまったく気にならなかった。むしろ、なんでそんなことを気にするんだとすら思った。この受け取り方の違いはどういうことなのだろうか。

特定の「命令」が明示されている空間に身を置いたからには、それがおかしいと判断可能なものが見出されない限りはひとまず従う。だから、「中に入ってはいけません」ということなら、入らない。ただそれだけなのである。この命令が過去にも徹底されて守られたかとか、今後も守られ続けるかどうかといったことは、ひとまずこの場で適切に振る舞うという当座の課題においては関係がない。我々は適切な場所に、適切なやり方で自転車を停めた。それでおわり。

その場その場のルールには敏感でいる一方で、それに自身が従うということに直接関連しない事柄や出来事に逐一意識を向けたり拘泥したりしないことは、日常生活を滞りなく送る技法のひとつだ。僕の「気にならなさ」の理由はこうしたことだろう。

しかしそれでは5歳児は納得しないだろうから、別の合理的な説明を与えればよい。たとえば、何かを禁止するという行為において、禁止した側はしばしば自身を例外化することができるということは、この社会において明文化されてはいないが、共有された知識のひとつだろう。この線でいってみようか。この禁止の張り紙を剥がし、この場を進入可能にすることができる人がいる。それは禁止した博物館の人だ、というように。

そういうわけで、ひとまず「博物館の人がやった」という説明を与えておけば5歳児も納得するだろうと思い、「博物館の人が、放置自転車だかをここにおいたんじゃない?」と言ってみた。

しかし5歳児は釈然としないようであった。どうやら、博物館の人も「中に入らないでください」という命令の宛先であると考えているようなのである。ひとたび禁止されたからには、何人たりとも、それを破ることは許されない。ルールというものをこのように捉えているような節が見受けられた。だから、仮にこの自転車を博物館の人がここに置いたとしても、それはルール違反であることには変わりはない、と。

親としては、この社会でうまく生きていくために、社会のルールなるものを折に触れて子どもに教える。だから「進入禁止」と書かれた看板なり貼り紙なりを見つけたら、それを守るように子どもにその場で教えるし、違反しようものなら注意する。でも、ルールを作った側はそのルールの適用外になることがしばしばあるということはどうやったら教えたらいいのだろうか。

「進入禁止」という命令に対して、これは「これを貼った自分たち以外は進入禁止」という意味だよという理解の仕方は、ルールというものを額面通り受け取るならば、たしかにずいぶんとおかしい。5歳児が納得しない理由はよくわかる。でも、社会生活をうまく送るという点からすれば、むしろそのように理解できるようにならないと大変だ。

多くの大人はそうしたことをどこかで学んできて、それを適切な場所で、適切に適用することができる能力を有している。でも、物事の習熟は、それを説明する語彙の獲得を常に併せてもたらすわけではない。このケースは、まさにその一例と言えるだろう。

親になることの一面は、こうした、いちいち言葉にする機会も動機もない、すっかり習熟した諸々を言語化する出来事に何遍も遭遇することなのだ。僕たちは、もっと社会のことを(説得的に)説明する言葉をもたねばならない。しかし、どうやって?日々模索するしかないのだ。