生活の観察

Reasoning in the Wild

推論の資源としての貼り紙

新型コロナウイルス問題により、私たちの対人距離についての日常実践は一時的なものかもしれないが、ずいぶんと変わってしまったという言説はそこかしこでみかける。確かにそうなのだろう。現時点でそんなに感染者が出ていない山口市でさえ、みんな他人の振る舞いや動線に気を配っている。

今、なんとなく「一時的なものかもしれないが」と留保を置いた。こんな状況はずっとは続かない。そう遠くないうちに元に戻るはずだ。こうした見込み、あるいは希望が、この言葉の選択に現れている。そして、多くの人がそう思っているはずだ。そんな確信さえある。もちろん、この新型コロナウイルス問題は想像以上に長く続くかもしれない–––そういった類の専門家の発言も見聞きするし、それはとても説得的だ。実際、これはどうも長引きそうではある(「withコロナ」というワードが出てきたあたりからそんな雰囲気も出てきたように思う)。それでもなお、「多くの人がそう思っているはずだ」と不思議となぜか言えてしまう。

まずもってこんな自分が不思議である。僕は楽観主義者だったのだろうか?なんとなくそんな感じもしないわけでもないのだが、ここは自身のアイデンティティを性急に設定するのではなく、もうちょっと慎重に考えたい。僕は「自分のみがそう考える」とは考えていない。「多くの人がそう思っている」と考えているのだ。この点はしかしこれまた妙な直観である。お世辞にも地域の方々と普段からやり取りがある方ではない。というか、家族と職場以外でよもやま話をする機会はあまりない。

では、こうした確信めいたものは、どこからもたらされたのだろう。メディアが拾い上げた街の声、近しい人たちとのやり取り、他人も自分と同じ希望を持つはずだしそうあってほしいという勝手な期待。どれもあるだろう。

ここで参考になるのは、僕らが日常生活の徒然において理解可能なあれこれはなんらかのパターンの「証拠」として扱われる、というガーフィンケルの発見だ(Garfinkel 1962)。僕らの日常的な推論は、こうした作業によって可能になる。では、「多くの人がそう思っているはずだ」という僕自身の推論を分解してみよう。どんな「証拠」を、いかなる「パターン」のもとでそれとしてとらえ、「多くの人がそう思っているはずだ」という推論を導いたのか。

 いくつかその推論を可能にした資源はあると思うのだが、パッと思いつくのは「貼り紙」だ。「テイクアウトはじめました」「レジにお並びの際は前後2メートルの距離を空けてください」「入店時は消毒液をご利用ください」などなど。新型コロナウイルス問題は、A4サイズの白い紙を町中にずいぶんと溢れさせた。手書きの場合もあれば、おそらくパワーポイントで作成したファイルをA4サイズで出力したものもある。そういう違いはあるが、そのほとんどが「紙」で、そこに警告、注意、ナビゲーションが手短かに書かれ、それなりに目のつくところに貼られていく。

山口に来てはや6年だが、職場以外で四方山話をするのは家族以外にいないので、実際に近隣の方が考えていることは「会話」を通してはわからない。話してないから。でも、彼らの残したさまざまな痕跡から十分に僕らは推論することができる。ただし、それが正しいかどうかはまた別のことだ。ここで重要なのは、ちょっとしたことから僕らはいろんなことを深く推論することができる能力をもっている、ということだ。ほぼ毎日商店街に行き、主に食品を買う。週末は商店街を抜けて近隣の公園に子どもを連れて遊びに行く。この日常のルーティンにおいて、僕は突然見慣れた景色に溢れたたくさんの「貼り紙」を視野にとらえていて、それを「多くの人がそう思っているはずだ」という推論の証拠としてとらえていたのだ。

これについて最初にはっきりと意識したのは、週末に子どもと遊びに行く公園で「注意/禁止の貼り紙」を見たときだ。

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禁止された遊具

ちょうど新型コロナウイルスの罹患者が増えていた最中に、「新型コロナウイルス感染拡大防止のお願い」として、遊具の遊びに直接的に邪魔にならない場所に貼られた。ちょっとわかりにくいかもしれないが、上の画像の3つの貼り紙のうち、上部が黄色でマークされているのがそれだ。そこには、次のようなことが書かれていた。

《保護者の皆様へ》

◯公園の利用につきましては、『密集』『近距離』とならないよう御注意願いただき、声掛けなどの御配慮をお願いします。

◯遊具で遊んだ後は、しっかりと『手洗い』と『うがい』をさせて下さい。

《よいこのみんなへ》

◯少しはなれて遊びましょう。

◯遊んだあとは、しっかり『手洗い』、『うがい』をしましょう。

山口市 都市整備課

この時はまだ閉鎖されていなかったので、「幼児に言って聞かせるのは難しいなあ」と思いながら遊ばせていた。同時に、空間的にひらけた公園までこうした貼り紙が貼り出され、行動の制限を要求してくるのか、そこまできたのか、と思ったのであった。

緊急事態宣言が出るタイミングの前後で、この遊具には使用禁止の貼り紙が貼られた。上の画像でいえば、ちょうど黄色い滑り台のところに上部が赤色でマークされているのがそれである。赤色のマークの上に白字で「遊具使用禁止」がふりがな付きで書かれている。そして、その直下には「新型コロナウイルス感染拡大防止のため5月10日まで遊具の使用を禁止します」と、山口市都市整備課名義で書かれている。「5月10日」の部分は赤字下線付きで強調されている。これ以外にも同様の貼り紙が何枚かこの遊具に貼られていたが、いずれも遊ぶことを直接的に制限する場所に貼られていた。

 注意喚起と禁止。しかもそれは、公園の利用者たる僕に向けられている。注意や警告が自分に向けられているということを自覚したとき、やや当惑しつつ、「どうしようかねえ」と一瞬考える。そして、「今日は公園で遊べないって」「またすぐに遊べるようになるよ」「今日は商店街のお散歩にしようかねえ」などと子どもに語りかける。このとき、僕は明らかにそれが「一時的」であることを前提としている。もちろん、自身のコロナ禍に対する素人の予測や願望がその背景にあるのは間違いない。もうひとつは、この貼り紙を貼った管理側の人びとも、少なくとも未来永劫続くとは考えていないことも見て取れることがある。

「遊具が撤去されて更地になる。遊具の『新しい』利用ルールが可変性が低い看板に書かれ、それが設置される。あるいは、『新しい生活様式』に適応した新しい遊具に置き換わる。そういった大きな変更までは今のところは考えておりません。あくまでも一時的・応急的・仮設的な処置にしておきます」

そういう設置者の意図が、貼り紙(および簡易テープ)という取り消し可能性が高いオブジェクトを使用していることから推論可能になる。一時的、応急的、仮設的、可変的なオブジェクトの使用は、それを見る者に対する、そこで指示されていることの時間幅の予測にかかわっているのである。

そこでふと、商店街でたくさんみた「テイクアウトはじめました」「レジにお並びの際は前後2メートルの距離を空けてください」「入店時は消毒液をご利用ください」と書かれた貼り紙が、まさに「紙」に書かれていたことに思い至ったのであった。見栄えはお世辞にもよいとは言えない。とりわけ店頭のデザインに明確なコンセプトがあって、物の配置や置かれる物のテイストになんらかの一貫性がそこに見出されるような店の店頭にベタッと貼られた貼り紙の異質性といったら!でも、それでもなお「紙」なのだろう。なぜなら、それは未来永劫続くものではないという予測、願いがあるからだ。なんらかの契機にすぐに以前の形態に戻れるようにしている。

かつてマンハイムは、特定の出来事の意味が何かの証拠として現れたとき、「証拠の意味(documentary meaning)」は遡及的に組み合わされて解釈されることを指摘していた。たとえば、「私が見たもののすべての意味を分析すると、突然「慈善の行為」が実際には偽善の類であったことがわかるかもしれない」(Mannheim 1951: 47) というように。

公園の貼り紙と商店街の貼り紙は、どちらもコロナ禍を前提にはしているけれど、前者は注意喚起もしくは禁止の通知、後者は新しいサービスまたはルールの通知という点で、それによってやろうとしていることは明確に違う。でも、どちらも「紙」を使っていて、いかにも急場でこしらえたことがわかる意匠でメッセージをこちらに伝える形式を採用している。この共通点の発見が、両者を結びつけ、ひいては「多くの人がそう思っている」という集合的理解に帰結したのであった。

これがもし、可変性・取り消し可能性の低いオブジェクトに刻印されるようになったら、いよいよもって皆「変わる」覚悟を決めたのだなと僕は推論するだろうし、それに合わせて自分自身の生活の組み立て方も考え直すことになるのだろう。

ところで、公園の禁止看板が仮設的であることについて、石川初は次のように述べていた。

…これは、公園の本質に関わっている。繰り返し述べてきたように、公園は本来、都市における「その他」を引き受けるべく構想された、なにをしてもよい場所なのだ。その公園のコンセプトを固持するために、禁止看板はほかの場所ではなく公園に設置されねばならないのである。公園の禁止事項は必ず、特殊で例外的な事項として掲げられるからである。禁止看板はつねに「ローカルルール」なのである。

(石川 2018, 63)

 なるほどたしかに公園は、都市の公共空間においては許されていない一切のことを許容する場所として建前的に設計されているがゆえに、そこで実際にはなにが禁止されているかは一見してわからない場所である。だから、「禁止事項を発信する側としては、「公園を眺めただけではわからないでしょうが、ここは球技は禁止です」というテキストを掲げるよりほかない」(石川 2018, 61)のである。ここで「建前的に」とわざわざ書いたのは、実際には公園はリテラルに「なにをしてもよい場所」ではないからである。これについては、シカールが次のように端的に説明している。

空間と遊びの関係は、流用とそれに対する抵抗が緊張状態にあるという点で際立っている。一方では、空間は、遊びによって自由に流用されてよいものとして提示される。しかしもう一方で、その空間は、ある種の遊びに対して–––とりわけ、政治・法律・道徳・文化などの観点で認められない遊びに対して–––抵抗する。

(Sicart 2014=2019, 89)

今回僕が公園で注意喚起の貼り紙にことさら意識が向いたのは、公園という空間のコンセプトを僕が十分に理解していたことは無関係ではない。だから、一方的に管理し、制限する貼り紙が登場したときに、普段はさほど存在感を示さない管理権限者の存在と強権性を強く感じ、そして「そこまできたのか」という軽い驚きと困惑を覚えたのだろう。他方で、そこでは同時に「紙」というオブジェクトが使われていて、その意匠も明らかに急場ごしらえであることから、あくまでもこれは一時的な例外事項であるという理解もまたもたらされたのだ。

はっきりいって注意書きの貼り紙はどういじっても格好が悪い。これについて、ノーマンは、次のように述べていた。

私は悪いデザインを見つけるための経験則を持っている。注意書きの貼り紙を探すことだ。使い方を書いた貼り紙を見たときはいつも、そこがへたにデザインされた部分なのである。

(Norman 1992=1993, 27)

ノーマンの主眼はあくまでも装置の使い方のナビゲーションの問題の指摘であり、その限りにおいて正しい指摘ではある。一方で、彼は注意書きの貼り紙自体の一時的、応急的、仮設的、可変的性質について見逃している(この点に対して、「貼り紙」の問題解決のためのソーシャルナビゲーション的機能に注目した新垣・野島(2004)は示唆的である)。

これらの性質は、とりわけ非常時に価値をもつように思う。この格好悪いは貼り紙は、「この非常時はいつかは終わり、きっと通常に戻る」という予測・願いの表象として解釈可能なものでもあるのだ。このことは、平時においては想定されてこなかったことなのかもしれない。そんなことを考えながら、なんとなく自分が他人からどう見られているかを気にしながら商店街で買い物をし、週末はいつまた閉鎖されるかわからない公園で子どもを遊ばせる日々を過ごしている。

 

参考文献

新垣紀子・野島久雄(2004)「問題解決場面におけるソーシャルナビゲーション:貼り紙の分析」『認知科学』11(3), 239-251.

Garfinkel, H. (1962). Common-sense knowledge of social structures: The documentary method of interpretation. In J. M. Scher (Ed.), Theories of the mind (pp. 689–712). New York: The Free Press.

石川初(2018)『思考としてのランドスケープ 地上学への誘い:歩くこと、見つけること、育てること』LIXIL出版

Mannheim K. (1951[1921/22]). On the interpretation of ‘Weltanschauung’. In K. Mannheim (Ed.), Essays on the sociology of knowledge (pp. 33–82). London: Routledge & Kegan Paul.(=1975, 森良文訳「世界観解釈の理論への寄与」樺俊雄監修『マンハイム全集1 初期論文集』p45-141, 潮出版社

Norman, D. A. (1992). Turn Signals are the Facial Expressions of Automobiles. Reading, Mass: Addison-Wesley. (=1993, 岡本明・八木大彦・藤田克彦・嶋田敦夫訳『テクノロジー・ウォッチング:ハイテク社会をフィールドワークする』新曜社)

Sicart, M. (2014). Play Matters. Cambridge, MA, London: MIT Press. (=2019, 松永伸司訳『プレイ・マターズ:遊び心の哲学』フィルムアート社)