生活の観察

Reasoning in the Wild

公共的な丸い石

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おもむろに置かれた石とブロック

教育学部棟と国際総合科学部棟のあいだの短い通路に、丸い石がひとつ、ブロックがひとつ置かれている。ちょっと見にくいが、写真のとおり。丸い石は傘立ての近くにある。ブロックは丸い石からやや離れた右側にある。

いつごろからあるのかわからないが、少なくともこの石とブロックの存在に僕はかなり前から気付いていて、ここを通るたびに「ああ、今日もあるな」と少し気にかけている。ここは一日にけっこうな数の人間が通るところなので、たぶん、ここにずっとあることに気付いている人はそれなりに多いと思う。

最初は、「変なところに置いてある石/ブロック」だった。どういうわけかたまたまここにある石/ブロック。あえて特別な意味を見出すとすれば、片付けるとしてもどうも面倒な、そしてその権利と義務の所在もいささか不確定な、誰かが気まぐれな善意を発揮するまでなんとなく放置されている不要物、か。しかし、それは「ドアストッパー」かもしれないなと、石/ブロックの存在に気付いてからほどなくして思うに至った。

上の画像の左右の出入り口を1日に1回は1往復する。というのも、右側の建物には僕の所属する学部の事務室があるからだ。そして左側の建物には僕の研究室がある。この通路の左のドアから右のドアへ、またはその逆方向の移動中にこの2つの石を見る経験は日々積み重ねられていく。すると、あるとき、この石/ブロックをドアと結びつけて見るひらめきが得られたのである。なるほどこれは「ドアストッパー」だ。ドアというオブジェクトと、それを開くという行為、そしてその状態を維持するという企図との関係性のうちにこの石の新たな意味を見出したのである。

ドアストッパーである可能性が得られたとき、この石/ブロックがここからどこかに持っていかれたり、片付けられたりしないでずっとここにあることもあわせてわかった。この2つのドアの開閉(及び通行)の権利は、多くの人びとに開かれている。その点で公共的なオブジェクトである。その使用に関連付けられたドアストッパーとしての役割を与えられている石/ブロックもまた公共的性格を帯びることになる。それゆえ一個人の判断でそこからどこかへ持っていくことは躊躇される。

ところで、最近また発見があった。いつも僕はこの通路をドアからドアへ移動する過程でこの石/ブロックを見ていたので、それをドアとの関連性のもとで理解することは当然のことではあった。ドアを正面に見据えた状況においては、石/ブロックはその周辺にあるものとして見えるからだ。でも、画像にあるとおり、この通路は十字路で、中庭から緑のネットをまくって学食方面に向かう道もある。普段この道は通らないのだが、たまたま通ることがあった。すると驚くことに、石/ブロックがドアストッパーとは異なるものに見えてきたのだ。もしかして、この石/ブロックはネット下部の開閉部分を押さえるために使う「重石」なのでは?

これまで、この緑のネットは当然に視野には入っていたのだが、正面にしっかり見据えることは稀であった。だから、石/ブロックと関連付けて見ることはなかった。たまたまこの道を利用するにあたり、緑のネットと相対したとき、相変わらず視野の周辺に石/ブロックは見えていたものの、2つのドアはそれより外側にあるからか、可視野においてより周縁化した。すると、緑のネットと関係したものなのではないかという推論が立ち上がってきたのである。

緑のネットの左側奥に幟の台座が2つあるので、いやいや重石はこっちかもなとか考えているうちに、ちょっとしたことに気付いた。この石/ブロック、仮にドアストッパーであったとしたら、置かれている場所が少しおかしいのである。というのも、石/ブロックは、2つのドアの軸の部分、つまり開かない側に置かれているのだ。これはちょっと不経済ではないか?だとすると、やはり重石であると理解したほうが正しいのかもしれない。

さらに、明らかにこれらはただの石/ブロックなので、通路上に置いておいておかないと、野生の石/ブロックと区別がつかなくなって、誰かに勝手にもっていかれたり処分されたりしてしまうかもしれない。だから、あえてここに置かれていることが妙なものとしてハイライトされるような、つまり何らかの特別な意味付けを喚起しやすい、そして緑のネットと関連付けて見ることもまた可能な場所に置くということを誰かがやったのではないか…。

そんなことをぐるぐる考えていると、そういえば、ウィトゲンシュタインがこんなことを言っていたな、と思い出した。

アスペクトの表現とは、〔その視覚対象の〕把握の仕方の表現である。(したがって、扱い方の表現であり、ある技法の表現なのである。)しかしそれはある状態の記述として用いられる。

(Wittgenstein 1980:1024)

この「把握の仕方」という言い回しはなかなかわかりやすい。周辺のオブジェクトやそこでの行為との特定の関係性のもとで見なければ、それは単に妙なところに置かれた石/ブロックでしかなかった(もっとも、「妙な」という把握の仕方をしていること自体、それはまた特定の把握の仕方によるものではある)。しかし、特定の関係性のもとで見れば、石/ブロックをドアストッパーや重石として見ることができる。「〜として見る(seeing as)」という言い方には、他の把握の仕方がありえることが含意されるが、それは、可視野にあるさまざまなオブジェクトや行為との相互の関係性の変化を見て取れるということでもある(野矢 1988)。そしてそれは、この通路の例で言えば、見る場所を変えたことによって得られたひらめきであったことを考えれば、観察者の身体性も関連していることなのだ。

ともあれ、 結局のところ、この石/ブロックがドアストッパーなのか重石なのかはわからない。もしかしたら両方の機能を期待されているものなのかもしれない。そう考えると、この石/ブロックの配置は、2つのドアと緑のネットそれぞれにほぼ等しい距離に置かれている点で絶妙、と言ってもよさそうだ。

こんなことを考えているうちに、はたと気付くことがあった。それは、それぞれの把握の仕方に共通していることは、この石/ブロックが公共的性格を帯びたものとして理解されているということだ。

僕はこの石/ブロックを今までも、そしてこれからもそのままにするだろう。ドアストッパーや重石として使うことがあるかもしれないが、使用後は同じ場所に戻すはずだ。この通路を利用するほかの人たちもそうしているとなぜか期待できる。そうだからこそ、誰にも捨てられたり持っていかれたりせず、長くここに在るのだ。ある程度は誰にでも使用は開かれているが、勝手に捨てたり持っていくことは憚られる。なんの変哲もない石/ブロックに対してこうした扱いを可能にする置き場所というのがあって、それがまさにここだった。

 

参考文献

Wittgenstein, Ludwig, 1980, Remarks on the Philosophy of Psychology, vol. Ⅱ, G. H. von Wright and Heikki Nyman (eds.), Trans. C. G. Luckhardt and Maximilian A. E. Aue,Basil Blackwell. (=1988, 野家啓一訳『心理学の哲学 2』ウィトゲンシュタイン全集 補巻 2, 大修館書店).

野矢茂樹(1988)「規則とアスペクト:『哲学探究』 第II部からの展開」『北海道大學文學部紀要』36(2), pp.95-135.