生活の観察

Reasoning in the Wild

路上に置かれたレンガとビールケースの意味:状況とその変化を説明する方法について

帰宅途中、商店街のアーケードのなかを歩いていたら、黄色いビールケースに入れられたレンガを見かけた。ビールケースには「おとし物です」と書かれた紙が貼られている。それを見て、「レンガが落としものなんて、なんかめずらしいな」と思い、写真を撮った。

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路上にぽつんと置かれたレンガは、たいていは重石として使われている。周囲の状況からその利用可能性を見出すことができい場合もある。しかし、多くの人工物と違って「落としもの」として扱われることはあまりない。明らかに誰かがそこに放置したように見えても、路傍の石よろしく、ただそこにずっと鎮座していることがほとんどだ。かといってゴミとして処分しにくいものでもある。燃えるゴミでも、燃えないゴミでも、プラスチックゴミでもない。だから放置される。

この点からすれば、街なかにぽつんと置かれた用途不明のレンガは、街なかの人工物に張り巡らされた秩序の隙間をついた事物といってもよい。そんな無害なのにアンタッチャブルな事物ことレンガに貼られたラベルがよりによって「落としもの」なのである。家に帰ったら「レンガなのに、落としものだって!」と報告しようと、意気揚々と家路についた。

「レンガなのに、落としものだって!」という報告形式は、「レンガ」と「落としもの」の結びつきについての私たちの常識的知識を前提としている。たいていは結びつかないものが結びつくものとして扱われていること、このことが共有できているならば、他者の笑いを引き出す第一歩だ。もっとも、それが本当に笑いを生み出すほどのおもしろさを湛えたものかどうかは別の話なのだが(悲しいことに、笑いはまったく取れなかった)。

さて、注意深く画像を見る人は、ここまでの僕の講釈に対して違和感を覚えただろう。実際、僕もいまやこのレンガを「落としもの」としては見ていない。あくまでも写真を撮った時点での状況に対する僕自身の理解について、つらつらと書いたものだ。この写真を撮ったとき、もっと類似のケースを収集して、「人工物と自然物のあいだ:街なかのぽつんと置かれたレンガについて」という題名で小論を書けると目論んですらいたのだが、残念ながらこのレンガは落としものではない。

 

写真を撮った日の夜

写真を撮ったその日の夜、寝る前に写真を見返したとき、ふと気づいた。落としものはレンガではないのではないか。ビールケースに貼られた「おとし物です」と書かれた紙のうしろに何かビニール袋に入ったものが見える。どうやらえんじ色のネクタイのようなものみたいだ。となると、透明なビニール袋に入ったえんじ色のネクタイ状のものが落としもので、レンガは重石なのではないか。写真撮影時は手書きで「おとし物です」と書かれた紙にばかり気が向いていて、ビニール袋の中身は見落としていた。

落としものは、ビニール袋に入ったえんじ色のネクタイ状のものだという理解がもたらされた瞬間に、この写真の見え方はまったく変化した。もう少し詳しくいうと、ゲシュタルトを構成する部分の意味とそれぞれのつながり方が変化したのである。

まず、写真撮影時、レンガは落としものに見えていた。ビールケースは、落としものを入れる箱。箱にレンガが入れられることにより、レンガが誰かの所有・管理物である見立てが高まる。そして「おとし物です」と書かれた紙のラベルは、ひとたびレンガを落としものとして理解したならば、それを指すものだと理解できる。ビールケースが落としものなのではない。紙のラベルがビールケースに貼られている理由としては、この落としものを拾ったのがビールケースの所有者または管理者であったからではないか。公共物にガムテープを貼るのは通常抵抗があるが、紙のラベルはガムテープでビールケースに貼られているので、この見立ての蓋然性はまあまあ高いだろう。写真撮影時、僕はこのように見た。

一方、その日の夜の「見え」はこうだ。レンガは重石である。ビールケースは重石を入れる箱。「おとし物です」と書かれた紙のラベルは、その真裏にあるビニール袋に入ったネクタイ状のものが落としものであることを示している。ビニール袋に入ったネクタイ状のものを落としものとして誰もが認識できるようにするための方法は案外難しい。路上にポイッと置くのは荒っぽいし、風で飛んでいってしまうかもしれない。落とし主が戻ってくる可能性を考えれば、落ちていた場所にほど近いところに固定することが必要だ。かといって、ガラス壁に貼るのも、それが公共物だから難しいだろう。じゃあ手近にあるビールケースに貼ればいいのではないか。ビールケースが風に飛ばされたりしないように、重石としてレンガを入れればよいだろう。よし、これならいけるぞ。…拾い主の善意による作業は、ざっとこんな感じだろうか。ブリコラージュっぽいな。ここまで推論することができた。

ありあわせのもので状況と必要性に応じてそのときの課題を何とかやりくりすることを、レヴィ・ストロースは「ブリコラージュ」と呼んだ。そのやりくりにおいて作り出されたブリコラージュ的事物は、状況と必要性に応じて柔軟にその形や構成を変える。一方で、集められた個々の事物は、それぞれ何らかの支配的な意味を持つものがほとんど*1なので、ブリコラージュ的事物を一瞥した通行者は、ブリコラージュ的事物を構成する個々の事物がもつ支配的意味に引っ張られて、一見これがなんなのか、把握するのに少し時間がかかったり、間違った見立てをもつことがある。

今回の事例で言えば、ビールケースはやはりその支配的安定性である「箱」としてまず見てしまう。そこに「おとし物です」と書かれたラベルが貼られているの見たならば、ビールケースは落としもの入れ箱として見てしまうだろう。それに加えて、中に入っているのがレンガという、街なかの曖昧な事物だったわけで、それをわざわざ箱に入れて落としものだと公知するという仰々しさに意識がいってしまうのも仕方ない…のかもしれない。

写真を撮った日の夜、僕のゲシュタルトが一変した経験をその場で振り返りながら、こんなことを考えていた。しかし、まだこの話は終わらない。

 

定点観察によって見えてきたこと

このネクタイ状のものは今後どうなってしまうのだろうか。そんな興味を覚えて、帰宅時に毎日この場所を通ることにした。ある日、ネクタイ状のものはなくなった。落とし主が現れたのかな。だったらいいな。おしまい。

…と思いきや、驚くことに、ビールケースとそのなかに置かれたレンガは、ずっとそのまま所定の位置に置かれたままなのに気づいた。定点観察の賜物である。

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僕はこのビールケースの行方をそれほど本気で追っているわけではないので、ただ帰宅時に見るようにしているだけだ。だから詳細はわからないのだが、おそらくこのビールケースとレンガは、何か具体的な役割が与えられていて、そこにずっとある事物なのだろう。たとえば、20時以降は駐車場に通じたガラス戸を閉じるので、そのバリケード的に使われているのかもしれない。このビールケースがある場所は、実は今回落としもので注目する以前から帰宅時にほぼ毎日通っていた場所なのだが、僕の帰宅行為とかかわりあうことがなかったために、その存在に気を止めることはなかった。もしかすると、今回その存在に気づく前からずっとここにあったのかもしれない。

それはともかくとして、わかったことは、このビールケースとレンガは、ネクタイ状の落としものを固定するため「だけ」にその場の創意工夫で作られた事物ではない可能性が高いということだ。おそらくはもともと何らかの用途があってそこに置かれた事物を、落としものを置くための場所「としても」利用した、ということが真相に近いと思われる。

 

状況の理解の変化や差異を理解可能にするゲームを支える格率とその方法

さて、ここまで、ビールケースとレンガの定点観察における僕の「見立て」の変化について記述してきた。ある要素を発見したとき、劇的にその「見立て」が変化していることがわかると思う。

こうした事実をもって、「ちゃんとじっくり観察しないとダメだよ」とか「クイック&ダーティな観察ではなくて、一定期間しっかり観察しないとダメだよ」という、誰でも言っているようなフィールド観察論を展開することもできるかもしれないが、それは今回の記事にとってどうでもよい。

今回、時系列的に「見立て」の変化を並べてみて驚いたのは、僕自身の、眼前の状況をとにかく合理的に理解しようとする態度と、個々の、そしてその出来事の変化に対してなされた説明の合理性だ。実際、時系列的に見れば、見落としていたことや、パッと見では発見できない事実がそこにはあった。しかし、どの時点の記述も、状況の理解として不足があることは遡及的に指摘可能であるにしても、いずれも支離滅裂ではないのである。さらには、「見立て」の遡及的修正もまた、それなりに「わかる」ものになっている。

つまり、その都度の状況の理解と変化を合理的に説明する方法がそこにはあって、それをいずれの時点の記述においても、僕はうまく使いこなしている、ということである。その説明は、おおよそ以下の格率のもとで組織されているのではないか。

  1. 合理的に理解できるのなら、ひとまずそのように理解すること。
  2. 一度入手した見立ての合理性を、それが覆されるまで一貫すること。
  3. 入手した見立ての合理性を基盤に、それにかかわる事物・人物・出来事・活動・歴史の理解可能性を推論すること。
  4. 新しい事実の発見をもって、その時点での見立てを修正する必要があるならば、その必要性の理解可能性を担保した記述によって修正すること。

こうして書くとあまりに当たり前のことを書いていると思うだろう。事実、あまりに当たり前のことなのである。僕も書き出してみて、なんて当たり前のことなんだと思いながら書いている。しかし、これが「状況を理解し、説明すること」をめぐるゲームの基本的なルールなのである(もちろん、ここで挙げた格率がまったく十分かというと、まだまだ吟味が必要だとは思うが)。これがうまく運用できなければ、説明という行為は成立しないし、その説明を聞く相手からも「なにが起きてるのかぜんぜんわからない」と言われてしまうだろう。ましてや、状況の理解やその変化をそれとして記述することはできない。

状況の理解やその変化を理解可能にするゲームは、こうした共通したルールと、それを組織し維持する具体的な方法を基盤としてなされている。状況の理解やその変化の記述は、その記述の目的が状況を理解してもらうとか、変化を理解してもらうことだから、僕たちはどうしてもそれに注目してしまう。でもそれは、状況の理解やその変化を理解可能にする基盤的な方法というのがあってこそ成立していることなのだ。僕たちが他者と共に在ることを可能にする方法の探求というのは、こういう方向での検討が必要だし、それは非常に基礎的な取り組みとなるだろう。

 

参考文献:

Ihde, Don., 1999. “Technology and Prognostic Predicaments.” AI & Society, 13: 44–51.

*1:現象学者のDon Ihde(1999)は、ハンマーを例に、事物の支配的意味について次のように説明している。たとえばハンマーは釘を打つなどの、工作における使用を目的して作られている。一方で、ハンマーを文鎮として使ったり、展示物として飾り立てたり、暴力行為の道具として使うこも可能である。このように、ハンマーにはそれぞれの用途の文脈に応じて適切な意味を与えることが可能である。このことをIhdeは複数安定性(multistability)と呼ぶ。ただ、先述のように、ハンマーには適切だとされる用途(=工作での利用)がある。これを支配的安定性(dominant stability)と呼ぶ。それ以外の用途は、十分に発展した代替的安定性(well-developed alternative stability)と呼ぶ。