生活の観察

Reasoning in the Wild

お片付けをめぐる親子の攻防

「そろそろおもちゃ片付けてね。掃除するから」

四歳児との暮らしでは、生活上の必要(たとえば掃除をするため)としつけのために頻繁に親は「片付けせよ」と子どもに言わねばならない。子どもはとにかくなんでも散らかす。生活上の必要の点から言えば、はっきり言って自分で片付けたほうが早いのだが、いつもそうするわけにもいかない。子どもが「片付けは親がするもの」だと思うようになっては困るし、そもそも「片付け」ができるようになってもらわないと今後の人生で困るだろうから、子どもになんとかやらせたい。生活の維持と子育ての難しい関係がここにある。

だから親は子どもに片付けをさせるためのさまざまな方略を講じ、トライ&エラーで繰り出すことになる。トライ&エラーと書いたのは、とにかくそれが失敗するからだ。

最近、子どもに片付けをさせる親の方略についての会話分析論文(森 2021)を読んだ。子育て中の私からするとどれも「あるある」で、「おたくもそうですか!」と共感しつつ読んだわけだが、ふと疑問に思うことがあった。片付けってなんだ、ということである。

当該論文では、子どもが片付けの意味がわかっていない可能性に思い至った親が「かたづけするじかんっていうのは、かたづけっていうのはなんだかわかる?」と子どもに質問する断片がある。子どもは頷きつつも説明を開始しないので、親は「ちらかっているものをもとにあったばしょにもどすってことだよね?」と確認している。

自分の管理下にある空間の片付けをしたことがある人ならおそらくみな経験していることだと思うのだが、私たちが普段やっている片付けは「もとにあった場所に戻す」という単純な作業だけを意味していないことが多い。パッと思いついたかぎりでは、少なくとも次の2つの特徴があるように思う。

  1. ものが増えたり減ったり、使用上の優先順位が変化したりするなかでの自分にとっての最適化に指向した微調整
  2. 他者から見ても「整っている」こと、すなわち「見てくれの整序性」を向上させる取り組み

他人の介入の余地のない空間ならば(1)だけでよいだろうが、他人の介入がありうるような空間ならば(1)と(2)の組み合わせか、当座の説教を逃れるために(1)を犠牲にして(2)だけやるということもあるだろう。とりあえず全部押入れに詰め込んでおくか!というあれである。

ところが、自身の管理する空間が与えられていないか、それに著しく介入を受ける段階の子ども、すなわち幼児は「自分にとっての最適化に指向した微調整」が容易に認められない存在である。実際うちも、おもちゃ棚のなかの配置にかかわるゆるやかなカテゴリー化とその都度の微調整は親がやっている。こうして親によってその都度設計された空間的秩序を再構成することは子どもには期待されていないか、認められていない。せっかく幼児が自分なりに片付けても「適当なところに置くな」とか注意されてしまう始末である。もとにあった場所に戻されていないのを見て、「またぐちゃぐちゃにしまって…」と愚痴りながら親は手を伸ばす。「もとにあった場所に戻せ」という変化を許容しない要請は、こうしたことが背景にあるのではないか。なんてことを考えていた。

そんなことを考えながらうちの出来事をつらつら思い返していると、そういうことに子どももうまく対処してくることあるよな、ということに気づいた。ついこのあいだのことである。

うちの四歳児は滅多に自分から片付けをしないので、いつも私から「はやくやりなさい」と言われ続けている。片付けをめぐる度重なるやりとりにおいて、いつ頃からか四歳児は「これは作品だから片付けない」と言うようになった。レゴや廃材で作ったロボットなどの工作作品のことである。これについてはこちらも「たしかになあ」と思うので、許可なく解体することはせず、その都度適当な置き場所を四歳児に提案しつつ、部屋を片付けていた。

つい先日、紙とペンをもって四歳児が「作品は触らないでくださいって書いて」と言ってきた。意図は図りかねたけれども、だからといって無下に断るような依頼でもないので言われるがままに書いたところ、四歳児は家のなかのものをかき集め、部屋の一角にこの画像のようなスペースをいそいそと作ったのである。

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ダンボールの切れ端を衝立にして、そこに「さくひんはさわらないでください」と書いた紙を貼り、その後ろ側に牛乳パックで作った台を置いた。そしてその台の上にいろんなものを置いたのである。見てもらえばわかるが、作品というにはあまりに未完成に見える、つまり親に「ゴミ」として処分されそうなものが置かれている。

しかし、これらはここに置かれることによって「作品」になってしまった。あるものが作品であるかどうかという問題は、その処分や片付けにかかわる重大な判断材料なのだが、それを四歳児は利用してきたのである。「作品は勝手に処分しない」と言い続けてきた手前、「いやいや捨てなさいよ」と言うのは容易ではない。発言の一貫性を維持するのも親の重要なワークである。かくして四歳児はうちにおける「作品」をとっかかりに、自身の管理下となるスペースをまんまと作り上げた。これからはこちらも「それが作品で片付けられたくないならそこに置きなさい」と言わないといけない。

特定の事物が「作品」として意味付けられることによって、そしてそれを置く空間が設定されることによって、私たちはそれを資源として行為を組織しなくてはいけなくなった。それまでは適当に散らばって置かれているものをひとつひとつ取り上げ、それが作品であるかどうかを確認しながら親子で片付けをしていた。その際私は「こんなところに打ち捨ててあるってことは片付けてもいいものだってことなんじゃないの?」と言い、作品ならばそんな扱いはしないのだ、しかし君は、という話法で片付けを要請していた。しかし、この空間ができたことにより、そこに置かれたものは作品としてみなさなければいけないようになった。言ってみれば、何が作品であるかを認定する初手を四歳児は常に取れるようにしたということである。

つまるところ、片付けをする/しないの攻防において、我々は片付けの対象になりうる事物に対して、「作品として適切に扱うとはいかなることなのか」という基準を共有しながら、それに基づいた事物の扱いの適切さと何が作品であるかを認定する順番について争ってきたのである。

ここにきて、子育てにおける片付け問題は次のフェーズに入ったのかもしれないな、と思った。それまでは「もとにあったところに戻せ」で済んだのだが、これから親は、子どもの管理下にある空間的秩序のバランスの問題を踏まえて「片付けせよ」と言わなければいけないし、四歳児もそのもとで適切なバランスを考慮しなくてはいけないだろう。まあ相変わらず「もとに戻す」ことは滅多にやらないので、同時並行的にしつけをせねばならないのだが。ともあれ、このスペースについて、

巣穴的な活動の自己組織化がバランスを失い収拾つかなくなってしまうことを防ぐような、具体的なやり方、手順、プロトコル、ストラテジー、方針、あるいは具体的な道具、ツール、デザイン、インターフェース、等々を、利用可能なものとして見つけること

(石飛 2011, 15)

…が親が可能になるように子どもは必要に応じて親を説得することが求められるだろうし、親は親で、眼前の状態からこれらが発見できるかで注意すべきかどうかの判断を下すことになるのだろう。こうしたことが必要なくなるタイミングが片付けのしつけの終わりなのだろう。

子どもからすれば親の「片付けをせよ」という圧力からの回避実践としての方策だったのかもしれないが、じつは私からすればしめしめであった。特定の空間に意味を与え、その意味に結びつくものを集めることもまた、片付けだからだ。

そして今日も四歳児は奔放に盛大に散らかしていて、私はため息をついて「片付けてね」と言う。

 

[参考文献]

石飛和彦(2011)「部屋をかたづける」『天理大学生涯教育研究』15, pp1-16.

森一平(2021)「片づけはなぜ難しいのか――その困難さと対処戦略の「しくみ」」是永論・富田晃夫編『エスノメソドロジー 住まいの中の小さな社会秩序 家庭における活動と学び』明石書店