生活の観察

Reasoning in the Wild

解決を免れた問題ある人工物

部屋の窓にはブラインドがついていて、いつもどの紐を引っ張れば望ましい動作をするのかわからず、ちょっとした試行錯誤の時間が生じている。写真のように二本しか紐がないケースでは、一見してどちらを引っ張ったら望ましい動作をするのかはわからないが、初手で失敗してもそんなに大変ではない。なぜなら残りの一本が確実に正解だからだ。

このように迷いやエラーを生じさせるものの、その状態はすぐ収束に向かうので、私たちの日常生活をほんの少しずつ蝕んでいるけれども、さりとて抜本的な解決策を講ずるほどのものでないということで放置されているもの、これをさしあたり「解決を免れた問題ある人工物」と呼ぼう。

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解決を免れた問題ある人工物は、相当気合の入った修復者が登場しない限りずっとそこに放置されていて、その使用者たちを一瞬イライラさせる。誰もが「あれはダメだよな」と言いながらも誰も何もしない。もっとも、何もしないのにはいくつか理由があるだろう。

  1. 先に述べたように、そこまでの労力をかけるほどでもないという経済的理由により「何もしない」という可能性。
  2. 公共物であれば、修復する権利が自分にはないという判断のもとで「何もしない」可能性。
  3. じつは解決策が容易に浮かばないほどに問題が難しいので「何もしない」可能性。

だいたいこういったとこだろうか。ブラインドはこのいずれも当てはまる場合が多いように思う。おそらくメーカーもその辺はよくわかっているのだろう。さしあたりの解決策として、紐に何か細工をするという方向の解決策は取らずに、小さい布に書いた説明書を紐につけておいて、それを読んでどうにかしてくれ、という姿勢をとっているところがある。しばしば機器操作上のインタフェース上の問題解決策として「貼り紙を貼る」という方策があることは報告されてきた(新垣・野島 2004)。ブラインドの紐はその物質的特性上貼り紙を貼るわけにはいかないので、このメーカーの策は苦肉の作であろう。しかし、私個人の経験であるが、ブラインドを使用するという作業の流れを省察するに、これは問題の解決を導くものではない。

なぜならユーザの私はブラインドの操作を何度も失敗してきた経験により、トラブル状況はさほど続かず、適当にいじっていればすぐに問題が解決できると思っているので、まず説明書を見ないからである。

ではいつ説明書を見るかというと、散々いじってもゴールできず途方に暮れたときである。こうした場合は、だいたいメーカーが通常想定している作業フローや想定されたブラインドの状態から「外れた」状態のように見えてしまうので、もはや説明書を見てもしょうがない。説明書には理想状態しか描かれていないので、当然ながら眼前で生じている問題の解決方法は説明書には通例書かれていない。だから、よくわからんなと独りごちつつ説明書から目を離して、結局適当にいじるのを再開することになる。そしてほどなく問題は解決される。

もうひとつ。紐の操作性を損ねてはいけないということなのか、この説明書は実に小さく、中身も本当に簡潔である。ユーザである我々は、このありとあらゆることが省略されたマニュアルと、目の前の現実の状態を重ね合わせながらゴールにたどり着かねばならない。個人の経験で言えば結構な割合でうまくいかない。これは先に述べたとおり、現前のブラインドがメーカーが想定するような理想状態ではないということもあるが、それ以外に、説明書のなかの説明が省略されすぎてよくわからないということがある。

かつてリヴィングストンは、折り紙を折るというワークの研究で、折るという作業と説明書を見るということとの関係について、次のように述べていた。

「インストラクションに従うために多くの作業をせねばならない。多くの詳細は除外されているようである。 私たちはインストラクションに示されているイラストを『達成する」』ためにワークしなければならない。 私たちは何をする必要があるのかを見つけねばならない」(Livingston 2008, 97)

「インストラクションは過程しか示していない。インストラクションの実践的妥当性は、インストラクションが私たちに何を指示しているかを発見する私たち自身の作業の中に組み込まれている」(Livingston 2008, 98)

これはまったくもっともなことであるし、ブラインドの事例にも当てはまるだろう。

しかし重要なのは、ブラインドの使用の事例のように、説明書を見るということそれ自体が作業の流れのなかにそもそも埋め込まれえないことがあるのではないか、ということである。ブラインドを使用する際、最初から説明書を見ることはないし、説明書を見るときは、すでにそれを見てどうになかなるようなフェーズは過ぎ去っている。解決を免れた問題ある人工物は、説明書を近場に置く程度のことでは容易に解決されないタフさを有しているのだ。

そういうわけで、解決を免れた問題ある人工物は、誰から頼まれたわけでもないが、せっせと日々被害者を生み出し、今日も誰かをイライラさせているだろう。でも、それは悪いことばかりではない。トラブル事例は私たちがこの世界とどのように折り合いをつけているか、そしてつじつまをどのように合わせているのかをはっきりと見せてくれる。だから、トラブルを紐解くことで、私たちのことが少しわかるようになる。さらには多くの人がそれを経験しているという事実が、それを皆で語り合うことを可能にしている。今日もなんてことない無駄話で、誰かが誰かとブラインドの問題について話の種にしていることだろう。私もその一人である。

 

参考文献:

Livingston, E., (2008) Ethnographies of Reason, Farnham, U.K., Ashgate.

新垣紀子・野島久雄(2004)「問題解決場面におけるソーシャルナビゲーション:貼り紙の分析」『認知科学』11(3),pp.239-251.