生活の観察

Reasoning in the Wild

路上の持ち帰ってよいものと、そうでないもの

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畑の横に積み上がった石と、そこに置いてあった空きのペットボトル

仕事を終えての帰宅途中。姫山沿いの道を自転車で走っていたところ、ふとこれ(上の写真)が目に入ったのだった。ペットボトルがポイ捨てされている。気まぐれな善意を発揮し、拾っていったん大学に戻り、ゴミ箱に捨てた。

空きペットボトルを拾う前に、なんとなく写真を撮っておいた。たぶんガレキの山は畑だか田んぼだかの不要物で、ガレキ処分の日にゴミ捨て場に出す前に一時的に集められたもののように見える。その意味では、空きペットボトルと同じ「ゴミ」のはずなのだが、僕が「ゴミ拾い」の善意を向けたのは空きペットボトルだけだった。この区別がなんとなく面白いなと思ったのである。

この「モノ」の所有に関する区別とそれを可能にする能力の話については、ハーヴィー・サックスの議論を思い出す。ガーフィンケル の述懐によれば、サックスは1963年にこんなことを言っていたらしい。

1963年、サックスとガーフィンケル は自殺予防センターにいた。ある日、サックスはガーフィンケル のオフィスにやってきて、「ハロルド、僕は違い(disitinction)を見つけたよ」と言ったのだった。サックスは2年前にイェールのロースクールを終えたところだからか、彼の言う「違い(disitinction)」と言う言葉は当初は法学的なものに聞こえた。「僕はpossessablesとpossesstivesの違いを見つけたんだ。possessablesについては、こんな意味で捉えている…[略]…道を歩いている。そこで何かを見つける。それはなんだか良さげに見える。君はそれを欲しいと思う。で、それを持ち帰ることができる。[possessablesという言葉が意味するのは]君は見つけた何かをそのように見ているということだ。possessitivesについて、これと比較してみよう。道を歩いている。そこで何かを見つける。それはなんだか良さげに見える。君はそれを欲しいと思う。でも、手に入れたいと思ってそれを見ているだけで、手に入れることはできない。それは誰かのものだと君は見ている。これを僕はpossessitiveと呼ぼう」(アンダーラインは筆者による)

(Garfinkel and Wieder 1992, 185)

 そしてサックスは、ロサンゼルス警察の警察官が巡回中に遺棄された車と違法駐車をしている車を区別し、前者についてはレッカー車による移動の手続きを、後者については違反チケットを貼る作業をしていたことを報告する。サックスは、警察官がpossessablesとpossesstivesを彼らの業務の中でなんらかの証拠に基づいて区別していることに注目し、その面白さに興奮したのだった。

この報告の4年後、サックスは1967年の講義でpossessablesとpossesstivesについてより深い議論をしている。警察の事例は「専門的能力」により可能になる区別事例として読むことができるが、1967年当時のサックスは、この区別する能力を「日常的なもの」へと拡張している。たとえば、テーブルの上に本を置いておくとどうか。それを見た人は、その席には先客がいると見るはずだ。サックスは、昨日の新聞だったらどうか、とか、鉛筆だったらどうだろうか、と問う。それに対する人びとの振る舞いを見ることで、possessablesとpossesstivesの区別と認識可能性のありようを観察することができるのだ、と(Sacks 1992, 608)。

また、こうした能力を身に着けることは、子どもの教育と社会化の問題ともかかわっているとサックスは述べていた(Sacks 1967, 608-9)。子どもは本当にいろんなものを拾ってくる。僕も、自分のおもちゃ箱のなかに拾ってきたいろんなものを詰め込んでいた記憶がある。うちの2歳の子どもも、道端にあるいろんなものを触るし、拾い上げる。時には、そこから持ち帰ろうとすることすらある。そのたびに「これはよそのおうちのだから触らないようにしようね」とか、「置いて帰ろうね」と諭している(まあ、2歳なので、どこまで伝わっているかはわからないのだが、根気よく言い続けなければいけないのだ)。その辺の石ころなら黙認することもある。都市生活者として、possessablesとpossesstivesを区別する能力を身につけることは、非常に重要なことなのだ。だから、親は子に事あるごとに教え込む。それは教えればたいていのものに対してはできるようになるし、使うことができる…と期待されるような、日常生活において修得が当然視された「ものの見方」なのだ。

さて、ガレキの山と空きペットボトルに戻ろう。両方とも同じゴミだと僕は見たのだが、ガレキの山には手を触れなかった。それは、畑の持ち主の存在をそこに見たからだ。おそらく、この山を作ったのは畑の持ち主である。しかも、これは「正しく」捨てられてはいない。あくまでも「一時的に」にここに積まれている(ように見える)。明確に所有者を推測することができ、かつなんらかの作業の途上にあって、そのアクセス権が自分にはない。そういうものにはおいそれと手を出すことができないし、出さないほうがよい。そういうルールがあることを僕はなぜか知っている。

ここにゴミとしてあるのはガレキと空きペットボトルしかないのだが、ガレキは明らかにここに意図的に集められている形跡が見て取れるのに対して、空きペットボトルはただ1つぽつねんと置かれているだけだ。ゴミの集合という観点から見れば、明らかに空きペットボトルはこの場においては「異物」に見える。「集合」を見て取れるということは、それに対する異物を見つけることができるということでもある。もし、種々様々なゴミがここに置かれていたとしたら、僕は手を出すことができただろうか。たぶんできなかったのではないか。この畑の所有者が、野焼きするためにここに集めた、と見たかもしれない。「ひとつしか置かれていなかった」し、それが「畑の所有者によるものではない」と見たから、勝手に拾い、勝手に捨てることができたのだ。

ほかにも興味深いことがある。この空きペットボトルが畑のなかに置かれてはいるが、道路側近くに置かれていたということは、僕が「拾って」「捨てられた」という事実において非常に重要だったと思う。なぜなら、畑は私有地の可能性が極めて高いのである。私有地はおいそれと他人が侵入してよい場所ではない。実際、空きペットボトルが山側にあったら僕はそれを拾えただろうか?おそらく、かなり躊躇したのではないだろうか。つまり、手の届く範囲でしか、僕の善意は私有地では発揮できないということだ。もっとも、足を踏み入れてはいないものの、空きペットボトルは私有地に置かれているのだから、侵入してはいるのだが、こと「畑」においては、なんとなくこのレベルなら「許される」と思っている。

都市の清掃ボランティアの様子を観察してみると、どうやら多くの人は、公道と私有地の境界とその侵犯については、僕と同じ理解をしている人が多いようだ。ただし、どこでも空間侵犯ができるという訳ではなくて、玄関前とか庭と見なされるような場所は、空間的な侵入もかなり厳しく制限している。私有地と公道の境目に壁があれば、せいぜい壁の上ぐらいまでが「触ってよい場所」である。つまり、possessablesとpossesstivesの問題は、その「モノ」自体だけではなくて、それが置かれている空間理解の問題という側面もあるということだ。

これは「公道の落し物」についても同じことが言えそうだ。落し物は、ただ落としただけでは不法に投棄されたゴミと区別がつかない。しかし、それを拾った善意の人が落とし主が見つけやすいようにどこかに置き直した場合、たいていは邪魔にならないように、一方でそれとしてわかるように置くことで、ゴミには見えないようにする(栗波他2018; 浦上他 2018)。このとき、それが置かれている場所はいろいろなのだが、そのひとつに、公道と私有地の境界あたり(塀の上とか、フェンスに引っ掛けてとか)に置くという解決法が技法としてあるのだ。

「所有」に関する日常生活者の観察と推論の問題。ちょっとした散歩でもいろんなことを見つけることができるし、それを手かがりに探求することができる。半径5メートルのフィールドワークは、お手軽だけど、結構深いのだ。

ちなみにこの写真を撮影したのはちょうど1ヶ月ぐらい前のことだが、今日見に行ったところ、まだこのガレキの山はあった。処分するつもりはないのかもしれない。石の配置はほとんど変わっていなかったので、そもそも誰もこれに触れてはいないようである。それ以外のゴミは置かれていなかった。あと、休耕中の田んぼなのか畑なのかよくわからなかったが、現在はとうとうと水が入っており、ここはどうやら田んぼだったようだ。

 

参考文献

Garfinkel, Harold and Wieder, Lawrence., 1992, "Two Incommensurable Asymmentrically Alternate Technologies of Social Analysis," In Graham Watson and Robert M. Seller, (eds.), Text in Context: Contributions to Ethnomethodology, Sage, pp.175-206.

Sacks, Harvey., 1992, Lectures on Conversation, Basil Blackwell, pp.605-609

栗波他(2018)『あいまいなものの観察:2018年東京編』

浦上他(2018)『あいまいなものの観察:2018年文庫版』