生活の観察

Reasoning in the Wild

「うまく見ることができない町内図」を見る、ということ

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壁に挟まれた町内図

山口駅から今市通りを抜け中央商店街まで行く途中にこんな「壁に挟まれた町内図」がある。ずいぶんといいかげんな仕事だなあと近くを通る度に思う。左のビルを建ててる間にどうにかできなかったのか。まあ外すのは面倒だろう。そして月日が流れ、左のビルが建つ。もうこうなっちゃうとさすがに外すのも一苦労でなおさら面倒そうだ。そんな面倒の積み重ねで残された遺物なのかもしれない。しかし、そこにあるのにうまく見ることができない町内図っていうのはちょっと面白いな。掲載されている店舗広告のうち、もう30数年は営業している「もぐらの里」だけは今もあるので、この町内図が設置されたのはまず過去30年の間であるに違いない。

しばらくこの「うまく見ることができない町内図」の味わいを楽しんでいると、ふと気づくことがあった。この町内図があることで、狭い隙間を挟んで並んで建っているビルのどちらが先に建ったのかを確信をもって言えるようになっているのだ。この2つのビルの来歴なんてまったく知らないのに。

こんなふうに、2つ以上の近接しているものに対して「Aが先でBが後」などと言えるとき、たぶん次のようなことを私たちはやっている。

  1. AとBをなんらかのかかわりあるものとして見た。グループ化したと言い換えてもよい。
  2. そのとき、たとえばAとBが隣り合っていると記述できるならば、そこに位置的関係性も見出してもいる「隣に」「左に」「右に」と言えるためには、その対象をそれぞれ別のものとして、しかし関わりあうものとして理解していなければいけない。
  3. 先・後と言えることからわかるように、そこに時間的秩序を見出してもいる。

別にこれはビルだけに当てはまる事例ではない。地層を見ると当たり前のように層が積み重なっていったのを見出すし、年輪を見ると少しずつ太くなっていった様を見出すと言う事例を考えるとよりわかりやすいだろう。そこで行われているのは、なんらかの「重なり」を見出すということだ。「重なっている」と言えるとき、そこでは個々の層をかかわり合う、何らかのひとまとまりのものとして見ている(「地層として見る」「年輪として見る」ということはまさにそういうことだ)。そして、同時に、「下から上へ」「中心から外縁へ」とう位置的関係性、そして、「誕生から現在へ」「これはこっちより古い/新しい」といった時間的秩序もまた見出すということもたいていはあわせてやっている(Gurwitsch(1964)のゲシュタルト心理学現象学的解釈の議論と、それに対するGarfinkel(2002)による「わざと誤読せよ」勧告の議論をみよ)。

冒頭の写真の2つのビルの話に戻ろう。先に、「3. 先・後と言えることからわかるように、そこに時間的秩序を見出してもいる」と書いたが、おそらくこれは、多くの場合ちょっと難しい「見え」だ。「うまく見ることができない町内図」が仮になかった場合を考えてみるとよい。

左のビルの方がやや現代的な体裁だから、たぶん左の方が新しいかな…と推測することはできるかもしれないが、絶対そうかと言われると、少し留保を置きたくなる。建築の素人の限界がここにある。しかし、「うまく見ることができない町内図」があるおかげで、かなりの確度をもって「左のビルの方が新しい」と言えるようになっているはずだ。そこには、町内図を設置しそれを通行人が見るという、かつてあった活動が誰しも見てわかるということが根拠としてある。誰しも等しく見られることが期待されるオブジェクトを、まさにそれを見ることが可能なはずの歩道に立って見ている僕が「よく見えない」「そもそも設置場所がおかしい」という経験をしている。こうした「おかしさ」として感受される「見え」は、まさにこの場所で見ていた僕に街の歴史的時間を理解させる資源でもあったということなのだ。

目の前にあるものに、位置的関係性・時間的秩序・そこでなされたであろう行為や活動を私たちはいとも簡単に発見してしまう。そして、その見立てはだいたい他の人とも一致する(と期待できる)。それは別になにかすごい能力なのではなく、まったくもって世俗的な能力だ。おそらく、ほとんどの人がこの見方ができるし、説明されれば「そりゃそうだろ」と言うだろう。そういう能力と、それとかかわるオブジェクトや出来事のかかわりとのありようを私たちは「公共的」と言う。

その「公共的な何か」は、一方で、冒頭の「うまく見ることができない町内図」のように、おかしなものをたくさん包含しているものでもある。しかしそれはまた、時間的秩序を発見する資源となったりする。街の歴史ーーと言うと大げさかもしれないが、そういう些細なことから、私たちは街のちょっとした歴史を日々の移動のなかで発見し、おかしみを感じ、夕飯時にちょっと話題に出したりするのだ。それはあまりに些細なことなだけに、誰も書き留めないようなものなのだろうが。

 

参考文献

Garfinkel, Harold. 2002. Ethnomethodology's Progra,. Lanham, MD: Rowman & Littlefield.

Gurvitsch, Aron. 1964. The Field of Consciousness. Pittsburgh: Duquesne University Press.