生活の観察

Reasoning in the Wild

冗長と省略

 

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山口線線路を覆う橋と、その手前の横断歩道

ぼんやりとこの道をまっすぐ抜けて温泉街の方に行こうか、それとも十字路を右折して、湯田温泉駅をかすめてドラッグストアに寄ろうか。ふと顔を上げると信号は青だった。ということは、あまり考える時間はないということだ。横断歩道を渡った時点でどちらに進むか決めなければならない。なかなか決まらないが、足は止まらない。

街の移動にはストップ&ゴーについての規範が伴う。信号待ちなどの誰もがわかる「停止」以外の理由による急な停止や、何を今やっているのかやや不明な動きをすると、目立ってしまう。なんなら、何かのトラブルに陥っていると見なされて、声をかけられてしまうことすらある(本当にトラブルに陥っているときは、それはとてもありがたいことなのだが)。歩くということは単なる「移動」というよりは、行為であり、ちょっとした作業であり、ワークなのである(Hall and Smith 2013)。僕はできるだけ街の規範に従順なアンノウンでいたい。だから、歩くということ、あるいはそれによって従事していることになんらかのほつれや淀みが見出されてはいけないのだ。

よし、まっすぐ行こう。今日は湯田温泉街を通ろう。特にどこかに寄るわけではないのだが、これから夜に向けて歓楽街らしい雰囲気をまといはじめる空気を吸うのは好きなほうだ。さて、まっすぐだ。横断歩道を渡ろう。

横断歩道を渡り、山口線線路を覆うにようにかかっている橋を渡りながらふと考えたのだが、先ほど僕は確かに「まっすぐ行こう」と考えたし、実際「まっすぐ」横断歩道を渡り、橋をこえて、山口線線路の向こう側へと抜けた。これはまったくおかしいところはない記述だ。でも、僕の身体動作を適切に記述したものではない。ちょうどこのとき僕の身体は歩道の上にあったのだが、横断歩道を渡って橋を渡るためには、都合4回身体を半回転させねばならない。つまり、4回「曲がらねばならない」のだ。でも、これらの身体の回転運動を「曲がる」と記述することもまたおかしいとは直感的にわかる。

要するに、どこかに向かうことを示す記述として、身体動作の詳細な記述は必要がない。冗長なのだ。かといって、身体動作が省略されているという言い方も適切ではない。まさにこの場所で僕が「まっすぐ行く」という現象において、たしかにこれらの身体動作は欠かすことができない構成要素なのだが、「まっすぐ行こう」という意思決定の記述にとり不必要なのだ。たぶん、道案内で「まっすぐ行ってください」というときも事情は同じだ。いちいち身体の回転に言及していたら道案内にはならない。

あるいはこんな言い方もできそうだ。「(この道を)まっすぐ行こう」という記述が言語的に過不足のない記述に見えるのは、「まっすぐ」という記述が適用される範囲において「曲がる」ということが起きないからだ。先に身体の半回転運動はそれだけでは「曲がる」と記述することは不十分だと述べた。じゃあどこからが「曲がる」なのだろうか?

たぶんこれは環境・状況依存的だ。この環境において「まっすぐ」と記述できる範囲をはみ出し、「まっすぐ」ではない方向へと歩みを進める動作性。これを認識すること(あるいはそうであることが予測できること)において、僕らは「曲がる」という記述に適切さを認めるのだ。もっとも、こうしたことは「まっすぐ行く」という記述においていちいち言及されない附帯事項のバリエーションのひとつであって、ほかにもいろいろあるはずだ。

ところで、こうした冗長さを回避をする記述がそれだけで十分であるように感じるのは、僕が視覚によって遠くを見渡せるということがかかわっている。視覚障害者にこの場所についての道案内をする場合を考えてみるとよいだろう。いろいろな説明の仕方があると思うが、信号音の聞き分けができる人なら、横断歩道の始点と終点をハイライトすればよいので、そのマーカーとして、横断歩道手前の縁石(およびその切れ目)と、横断歩道を渡ったすぐ先の欄干をピックアップして説明すると思う。さらに車音を使える人なら、「車道に沿ってまっすぐ」と付け加えるかもしれない。これらは視覚障害者がこの道を「まっすぐ行く」ために利用可能な資源としてピックアップされるものだ。もちろん、これらは晴眼者にとっても同じく「まっすぐ行く」ために利用可能な資源ではあるのだが、ひとつひとつハイライトされる必要のないものでもある。利用可能な知覚手段が異なれば、道案内というワークにおいて、同じ記述でも冗長だと感じたり、必要なものが省略されてしまっていると感じたりすることもあるのだ。

そんなことを考えながら、横断歩道を渡り、橋を越えた。それなりにややこしいことを考えながらの歩行であったが、不用意に止まることなく、また考え込んでいる様子も見せず、おそらく誰しもが「湯田温泉街方面に向かって歩いている人」とみるであろう素振りでただ単にまっすぐ歩いたのだった。

 

参考文献

Hall, T. A. and Smith, R. J. 2013. Stop and Go: A Field Study of Pedestrian Practice, Immobility and Urban Outreach Work. Mobilities 8(2), pp. 272-292.