生活の観察

Reasoning in the Wild

曖昧な文の明確な理解

f:id:akiya0427:20190524132256j:plain

「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていただきます」

ゆめタウン山口のメイン入り口前の駐車スペースまわり4、5台分のスペースにいつからかそれぞれ1つずつ青いコーンが置かれ、それにこんな文言が書かれた張り紙が貼られている。

「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

上の写真の側溝鉄蓋のあたりで一瞬立ち止まった時に目に入った(写真は入り口の反対側から撮ったものだが、この対面にも同じように空きスペースがあり、そこに同じ張り紙が貼られた青いコーンが置かれいた)。ふうん、そうですか。特に疑問もなく、自転車を押しながら横断歩道を渡った。

一時停止線でしっかり停まったとしても、入り口から出てきて横断歩道を渡ろうとする人の姿は車の運転手からはたしかに見えにくそうだし、飛び出してきたらすぐには対応できなさそうだ。以前に結構危ないことがあったのかもしれない。駐車場を作ったときはこんなことは想定してなかったんだろうな。参与者の導線と視界を想定した設計はやっぱり重要だよなあ。講義で使えるかもしれないし、写真でも撮っておくか。そして、横断歩道を渡ったところでパチリと写真を撮り、そのまま買い物袋を下げて自転車にまたがって帰ったのだった。

何日か経ったあとにこの写真を見返す機会があった。張り紙の文言をあらためて読むと、一見読みが定まらない曖昧な文章なのではないかと思った。

  1. 「(車の運転手が)横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」
  2. 「横断歩道を歩く人が(走ってくる車が)見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

どちらが正しいだろうか。駐車禁止と言っているのだから、車の運転手に宛てていることは間違いないとは思う。もしそうなら、「見えなくなる」という状態変化の主体は「車の運転手」だと読むように導かれるだろう。車がここで停まってしまうと、後から走ってくる車の運転手は横断歩道を渡る歩行者の姿が停車している車の影に隠れて見えなくなってしまうのだ。したがって、「(車の運転手が)横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」と読むのが正しいはずだ。ちょっと時間をかけて考えればわかることだ。なんだ、そんな難しい話ではなかった。

しかし、待てよ、である。しばらく眺めているうちに、もうひとつの事実にも気が付いた。それは、あの場にいた僕自身はこの文言に曖昧さを感じていなかったということだ。そこにいた僕は端的にわかってしまっており、一方で後からそれを振り返る僕は少し時間を要した。そして、文章に曖昧さを見出した。この間には、「曖昧な文章の理解」をめぐって何か決定的な違いがある。

あのとき僕は特に何かを考えることもなく、側溝鉄蓋のあたりまで自転車を押して歩き、車が来ていたのを横目で何となく確認したので立ち止まった。ふと顔を上げると、空きスペースに張り紙が貼られた青いコーンがあり、その文言を読んだ。車の往来がなくなったのを確認して横断を歩道を渡り、パチリと写真を撮って帰った。一連の流れはこうである。

立ち止まった時にようやく存在に気づき、読んだ。最初に目に入ったのが、赤字で強調されている「駐車禁止」の文字だった。この文字列で注意書きであるとすぐにわかった。注意書きはたいてい、誰に宛てているのかを明確には書かない。禁止する行為または活動だけが書かれていることがほとんどだ。どうやら禁止されているのが駐車であるようだ。ならば、この注意書きの宛先は駐車をする人、すなわち車の運転手で間違いない。だから、歩行者としてこの環境にいた僕には、張り紙冒頭の「横断歩道を渡る人が」の「横断歩道を渡る人」が主語であるという読みの可能性すら浮かばなかったし、一読して自分に宛てられているかも、とは思わなかった。それゆえの「ふうん、そうですか」である。

「端的にわかってしまう」ということはおそらくこういうことなのだ。その環境に実際に身を置き、風景の一部として存在するということによって、周りの事物をその環境に身を置く自分とのかかわりから見ようとする、あるいはそういうことがまったく自然にできるということだ。歩行者としてその場に立ち、買い物を終えて帰宅しようとしている活動に従事中で、かつ自身の知覚の指向性が一定方向を向いていること。こうした条件のもとで自身に向けられているかもしれない注意書きを読むということと、その環境・時間から離れてそれを読むということのあいだには、利用できる資源と読むという活動に費やすことができる時間に大きな違いがある。

だからといって、当事者性を薄めて(あるいは脱して)じっくり見て考えるということが無駄かというと、まったくそういうことではない。ありえた読み、ありえた選択、ありえた導線、ありえた推論、利用できた資源…これらをひとつひとつ発見し、「どれも実際には選ばれなかった」ということ、このことを確認することは、実際にそこで起きていたことの見通しをよくする方法のひとつだ。その意味で、「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」という文言のみを取り出してあれこれと考えることはあまり意味がない。

ところで、注意書きの宛先、つまり禁止指定された行為または活動の主体は表現上省略されることが多いと先に述べた。「駐車禁止」「ボール遊び禁止」「不法投棄禁止」「私語は謹んでください」…などなど。仮に特定のカテゴリーの人びとを想定していたとしても、それをことさら言及する必要がないという点で、管理側からすればとても都合のいい方法だと言えるだろう。排除アート(Hostile architecture:これ、「アート」って訳をあてるのはどうなのかなっていつも思う)も同じ仕掛けがあると思うのだが、「特定のカテゴリーの誰か」に直接言及しない、あるいは「この行為をする可能性がある人すべてに宛てているので、別にあなただけを排除しているわけではない」というエクスキューズを可能にするという点でほんとうによくできていると思う。

行為または活動の記述のみによる「禁止」は、それをしようとする人にだけ当事者性をもって読まれる/聞かれるものだ。だから、それを読んだ/聞いたとしても、自身には該当しない人には問題視されにくい側面があるのだ。 

「横断歩道を歩く人が見えなくなる為駐車禁止とさせていだきます」

という注意書きを見て腹を立てるのは、これまでの経路のうちに空き駐車スペースを発見できずにいるなか、このスペースを見つけて車を寄せてみたら駐車禁止の張り紙が貼られているのを見た車の運転手だけだ。歩行者や店の人は、この空間を「ほぼ満車であるなかの空きスペース」として認識することはまずないだろう。「無駄なスペース」と認識することはあるだろうが。