生活の観察

Reasoning in the Wild

手繋ぎと視界

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商店街ってこんなに奥行きあったっけ

2歳と4ヶ月になる子どもが、ちょっと前から気が向いたときは手を繋いで歩いてくれるようになった。これは2歳児との外出経験に大きな変化をもたらした。より安全に歩けるようになったとか、親愛の情が高まったとかそういうこともあるのだが、何より「遠くを見ることができるようになった」のだ。

幼児は、好奇心のおもむくまま、四方八方に飛び回る。ありとあらゆるものを触る。こんなところに、というところに侵入したりする。「幼児だから」という理由によるある程度の周囲の免責は期待としてあるし、また事実、多くの場合は「あらあらまあまあ」という微妙な面持ちを伴いつつも許容してもらえる。

でも、だからといってまったく放任というのもそれはそれで親の責務履行が不十分だと怒られそうなので、程度をみて2歳児を注意したり申し訳なさそうな態度を周囲に示さないといけない。躾もしないといけない。親であり続けなければいけないのだ。だから、とにかく幼児からは目が離せない。「目が離れている」ことがまわりから観察されれば、それは後で問題が生じた際の責任帰属の証拠として用いられる可能性がある。何よりそうすることで幼児は容易に危険に突入してしまう。幼児は本当に危険予測ができない。そういう事情もある。

こんな状況だと、親(つまり僕)の視線は、ずっと2歳児を追うことになる。2歳児から距離ができてしまうと危険回避ができなくなったり、他人に迷惑をかけてしまう可能性があるので、一定の距離をもって追いかけ続けることになる。すると、基本的に視線は斜め下に固定化される。そして、幼児を中心とした、周辺視野が及ぶ範囲しか見えなくなる(僕の場合、左目の視野が通常よりも狭いので、おそらく他の人が経験するよりも見える範囲が狭い。まあ、この視覚しかもったことがないので、通常の視野がどれぐらいなのかは感覚的にはわからないのだが)。

こんな感じで2歳児を自身の観察下に常態的におこうとするので、手を繋がない幼児と一緒に歩くときの基本的なフォーメーションは、付かず離れずの距離感を保ちながら、幼児が前、僕がそのうしろ、となる。このフォーメーションは他者から特定の規範を伴って観察しうるものであるとも思う。親が前、幼児がうしろといったフォーメーションの親子を目撃したときに、どんな遠くからそれを見たとしても、そこに何らかのトラブルを推測してしまうだろう。このように、「親が幼児を見続けていること、あるいはそれが可能なフォーメーションを維持できていることが第三者からも観察可能であること」は、社会生活においてとても重要なことなのである。

で、「手繋ぎ」の話である。初めて2歳児が商店街での散歩中に手を繋いでくれたとき、それ自体の喜びもあったのだが、実はそれよりも、「幼児から視線を外して遠くを見ることができた」ことの驚きが大きかった。とりあえずは手を握っているから、幼児の安全はそれなりに確保されているし、トラブルにも対処しやすい。何らかの手段で繋ぎ止めてさえいれば、実は「幼児から視線を外すこと」の問題性は低減するのだ。これは発見だった。まだベビーカーに乗ってくれていたときは「遠くを見る」ことはできていたはずなのだが、ベビーカー乗車拒否かつ手繋ぎ拒否が長く続いたので、すっかりその感覚を忘れてしまっていた。ああ、こんなに商店街は奥行きがあったのか。休日の商店街はそれなりに人がいるのだな。アーケードってこんなかたちしてたっけ。

よく考えれば、私たちの移動における視覚経験は、たいていは「ちょっと先を見ている」体勢からもたらされるものが主なのではないか。むしろ、足元まわりをずっと見続けるのはかなり特殊な状況なのではないか。そんなことすら思う。それが特殊な状況であるがゆえに、その状況におかれたときには自由の制約を感じるし、それが外れたときに開放感を感じるのかもしれない。制約を感じていて大変だからそこから外れようとすると、今度は親の責務の履行評価という他者の眼差しが迫ってくる(ように他者の視線を理解してしまう)。幼児の「手を繋ぐ」という技術の獲得は、こうも僕に変化をもたらすものであったのだ。

2歳児は、いずれは手を繋がなくても横に居てくれるようになるだろう。あるいは、その危機管理能力への信頼性が向上して、ずっと見続けなくてもよくなるだろう。それは、今度はどんな移動経験を僕にもたらしてくれるだろうか?

学生の時分に、菅原和孝・野村雅一編(1996)『コミュニケーションとしての身体』大修館書店を繰り返し読んだ。収録論文のひとつに、斎藤光「並んで歩く技術」がある。そこに、こんな一節がある。

…「並んで歩くこと」の特質として三点ほどが考えられる。まず第一に指摘したことは、「並んで歩くこと」が常態で、「自然」のように見えるが、見知らぬ人と並んで歩いてしまうという状況を考えるならば、非「自然的」に作られたものであるということであった。歩く側からすれば、脇に特殊な意味があるらしく、また、並び歩く二人を見る立場からすると、その二人に一定の関係を読み込む記号でもあるということだ。第二に、動物が複数で移動する場合を理念的に考察すると、横並びで二人で歩く行為には、生物的な基盤はないらしいということが推察された。そして、第三に、その行為は、成長するにつれて獲得していく行動様式の一例であるらしいことがわかったのである。したがってそこには文化の力が働き得るし、何らかの文化的刻印をそこに見るのも当然のことであろう。

(斎藤 1996, 106)

ここに書かれている「自然」さや「生物的基盤」が、現在、動物行動学など関連分野でどれほど支持される主張なのかはわからない。関連する論考があれば、ぜひ読みたい。さしあたり、人間が「並んで歩くこと」に内包されるさまざまな規範の存在を見い出すこと自体は正しいと思う。2歳児は、この規範をまさに学習している過程なのだろう。2歳児との散歩は大変だが楽しい。いや、ほんとに大変なのだが。

振り返ってみれば、僕自身が「なんてことのない身振り、とりわけ歩行などの移動の規範性」を通して社会のルールというものを探求していきたいな、と考えるようになったのは、このあたりの論文を学生のときに読んだからだった(あとは同書に収録されているケンドンの挨拶行動の論文や、ゴフマンの移動体の議論とかを繰り返し読んだ)。懐かしい。あまり全面に出したことはないが、僕の研究テーマのコアは実はこれであって、そのために、いろんなフィールドの歩行場面のデータを集めてチマチマと分析を続けてきたのだった。今は育児で手一杯でどこにも行けないのだが、ついその路線で自分自身の日常生活も眺めてしまう。なんてことのないルーチンと手癖に満ちた日常ではあるが、特別な場所に行かずとも、こうもいろいろな発見があるのだ。

 

参考文献

斎藤光(1996)「並んで歩く技術」菅原和孝・野村雅一編(1996)『コミュニケーションとしての身体』大修館書店, pp94-135.