生活の観察

Reasoning in the Wild

事物の予期せざる媒介による道徳的判断への介入

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山口大学前バス停

普段は自転車通勤なので、大学正門前にあるバス停ではあるが、ほとんど利用することがない。そもそも大学構内にもバス停はあるので、どうしてもバスを使わなくてはいけないときはそちらを利用することが多い。と言っておきながら、ついこのあいだ、この「山口大学前バス停」を使うことがあった。

研究室を出たら雨だったのである。自転車では帰れない。しかし、大学構内のバス停はけっこう並んでいたので、湯田温泉駅まで歩いて行き、電車で帰ろうと決めた。

でも、正門を出てすぐに靴に雨が滲みてきて心が折れてしまったのである。もうこれ以上歩きたくない。眼の前には山口大学前バス停があるではないか。じゃあこれに乗って帰ろう。大学構内のバス停から100メートルも離れていない山口大学前バス停に向かった。

先客はそれなりにいた。僕は迷いなく列の最後尾(と思われる場所)に並んだ。待ち行列というのは考えてみれば面白い現象だ。おそらく初めて会ったであろう他人同士が、お互いを監視し、ほとんど無言で管理しあいながら、乱れなく作り上げる。そうした列に並ぶという行為をみながやることによって、それは待ち行列としてその場に居合わせた人すべてに目撃可能(witnessable)なものにもなる(Livingston 1987)。だから、後から来た僕も、パッと見てすぐに「待ち行列」を発見し、順序を見出し、それゆえ躊躇なく列の最後尾に並ぶことができたのだ。

僕は待ち行列のそれなりに後ろのほうにいたので、この待ち行列の形成過程を最初からは見ていない。だからなのか、やや心がモヤモヤするような「見え」をした。写真にあるように、このバス停にはベンチがある。問題はこのベンチの位置だ。このベンチは「待ち行列」とどのような関係をもっているのか?

このベンチには先客の一人と思われる高齢者が座っていた。その人以外は全員立っている。いったいこの高齢者はどのタイミングでバス停に来たのだろうか?最初からいたのだろうか。そうならばこの人は紛うことなき先頭だ。あるいは、すでに列が形成されている段階でバス停に来たのだが、立って待つのはつらいので、さしあたりこのベンチに座って待つことにした人なのか。僕は座っている人を「高齢者」と見たので、さしあたり後者の推論が正しいかなあと考えていたが、実際どうかはわからない。なにせ登場場面を見ていないのだから。そもそも僕より先に居合わせた人すべての登場場面を僕は見ていないのだから、これはベンチに座っている人だけに当てはまることではないのだけど。

かといって、「あの人並んでるんですかね?」と列のメンバーに聞くこともできない。咎めているように聞こえてしまう。真の先頭ならふつうに最初にバスに乗り込めばいいし、そうでなくても優先乗車してもよい資格をもっているようにも見えるし、つまりは結果としてどうなってもよい。だから、咎めているように聞かれうることは言わないほうがよい。

それでも気になってしまうのは、待ち行列という現象に道徳的性質が備わっていることとかかわっている。「実践的行為に伴うさまざまな規律は、社会的秩序による拘束と道徳的性質によって構成される。すでに並んでいる人を押しのけて自分が列に並ぶことを避けたり、列に並ぶことを避けて直接修理工場へと向かうとき、人びとはこうした拘束や道徳的性質を感じる」(Livingston 1987, 12)のだ。「列に並ぶ」という現象のうち、ここでいう道徳的性質のうち中核を成すものは、「順番に並べ」という規則に関連するものがまずは思いつく。

もっとも、「順番に並べ」という規則には、それを適用させる実践においては「これこれこういう場合にはこうせよ」とか、「例外が生じた場合はこうすればよい」といった付帯条項が伴うものでもある。こうした条項は必ずしも言明されないし、そのすべてが列挙されるようなものでもないが、その場にいる人びとによって共通して理解されていて、行為においてそれを参照することが期待されるようなものでもある(Garfinkelは、こうした条項を「エトセトラ条項(et cetera clause)」(Garfinkel 1967, 74)と呼び、また、その共通理解への期待を「共有された合意(Shared agreement)」(Garfinkel 1967, 30)という言い方で表現している)。

僕がややモヤモヤしたのは、「先頭が二人いる」可能性をそこに見たからだ。これは規則違反だ。「二列でお待ちください」とわざわざアナウンスされるような駅での電車待ちの行列の場合などを除いて、先頭が二人いてはいけない。他方、もしベンチに座っている高齢者が真の先頭でないならば、どうなるだろうか。「高齢者には優先的に順番を譲るべきである」という付帯条項が適用されるのだろうか。あるいは、高齢者自身が待ち行列の規則に準じて、(自身が列から外れていることをもって)最後にバスに乗車するのか。

ただし、これを解決するのは僕ではないことも知っている。待ち行列のうち、先頭で立っている人が解決すればよい。なにせ、先頭にいるのだから、ベンチに座っている高齢者が自分より先に来たのか、あるいは後から来たのかはわかっているはずだ。「順序」が可視化され、それが利用できるということは、こうした道徳的問題の(少なくとも先頭の人以外の)回避を可能にするものでもある。

僕が悶々としているうちにバスがバス停に近づいてきた。さあこの問題を先頭の二人はどう解決するのか。見届けよう。バスが着き、扉が開こうとする。しかしベンチの高齢者は立たない。先頭の人は高齢者を明らかに気にしており、チラチラ見ている。扉が開いた。先頭の人は高齢者の方を明らかに見て、「どうぞ」というジェスチャーをしたようだ。そして高齢者はそれを断ったようである。会話はよく聞こえなかったが。

かくして、バス停における先頭二人問題はトラブルなく解決されたようだ。結局列の先頭の人とベンチに座っていた高齢者のどちらが先にバス停に来たのかは僕にはわからなかったが、明らかに先頭の人は高齢者に先に乗ることを促した。「先頭を譲った」と記述してよいかはわからない。高齢者が列の最後に回ることの理由は僕には聞こえなかったからだ。「後から来たんでええですよ」と言ったのかもしれないし、「足が悪いのでゆっくり乗りたいから最後に乗るよ」と言ったのかもしれない。もはや僕にはどちらでもよい。「列に並び、バスに順番に乗る」という活動が滞りなく進行されるように先頭が調整したことさえ見届けることができれば、さしあたりOKなのだ。ただし、この高齢者が僕より先に来たという事実は間違いないので、この高齢者より先に僕が乗車するときに少し心のざわめきはあった。だから、ちょっと会釈して乗ったのであった。

行列のメンバーの間には、生じる可能性がある道徳的問題への責任の配分の不均衡が存在する。後ろのメンバーは基本的に先頭の判断に従い、模倣すればよい。電車の乗り込み場面をみてもそうだろう。先頭の人がひとたび乗り込んだら、まだ下車している人がいようが、列の後ろの人も前に続いて乗り込んでしまうことが多いだろう。

ところで、こうしたバスの待ち行列における道徳的問題が引き起こされたのは、ベンチがこんなところに置かれていたからだ、という点は重要であろう。たしかにバスの乗降口となると期待される場所からは離れて置かれてはいる。でも、先頭とみなすことがまったくできない場所ではない。そもそも、ベンチはバス停のどこに置かれていようが、待ち行列からは外れてしまう。かといって、バス停の後方に置いたら、そこに座ったが最後、バスには一番最後に乗り込むことになる。ベンチが置かれている理由が足の不自由な人や高齢者の負担軽減としてあるのならば、そういう理由で常にバスに最後に乗り込まねばならないことになるようなデザインはそれはそれで問題だろう。

このような、特定の事物が意図せずして道徳的問題を引き起こすことを、Verbeek(2011=2015)にならい、さしあたり「事物の予期せざる媒介による道徳的判断への介入」とでも呼んでおこう。ベンチはたしかに善意で置かれたものだろう。実際、足の不自由な人や高齢者はよくそれを利用しているようだ。その点で、おそらくこのベンチを設置した人の意図通りに使われてはいる。しかしそれは、バス停で起きる現象において「不滅の、しかし一時的なオブジェクト」(Livingston 1987, 12)である「待ち行列」の秩序ををときに撹乱するようなものでもあるのだ。

 

参考文献

Harold Garfinkel., 1967, Studies in Ethnomethodology, Englewood Cliffs, N.J.: Prentice Hall.

Eric Livingston., 1987, Making Sense of Ethnomethodology, London: Routledge & Kegan Paul.

Peter-Paul Verbeek, 2011, Moralizing Technology: Understanding and Designing the Morality of Things, Chicago: The University of Chicago Press. (=2015, 鈴木俊洋訳『技術の道徳化:事物の道徳性を理解し設計する』法政大学出版会).

 

 

冗長と省略

 

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山口線線路を覆う橋と、その手前の横断歩道

ぼんやりとこの道をまっすぐ抜けて温泉街の方に行こうか、それとも十字路を右折して、湯田温泉駅をかすめてドラッグストアに寄ろうか。ふと顔を上げると信号は青だった。ということは、あまり考える時間はないということだ。横断歩道を渡った時点でどちらに進むか決めなければならない。なかなか決まらないが、足は止まらない。

街の移動にはストップ&ゴーについての規範が伴う。信号待ちなどの誰もがわかる「停止」以外の理由による急な停止や、何を今やっているのかやや不明な動きをすると、目立ってしまう。なんなら、何かのトラブルに陥っていると見なされて、声をかけられてしまうことすらある(本当にトラブルに陥っているときは、それはとてもありがたいことなのだが)。歩くということは単なる「移動」というよりは、行為であり、ちょっとした作業であり、ワークなのである(Hall and Smith 2013)。僕はできるだけ街の規範に従順なアンノウンでいたい。だから、歩くということ、あるいはそれによって従事していることになんらかのほつれや淀みが見出されてはいけないのだ。

よし、まっすぐ行こう。今日は湯田温泉街を通ろう。特にどこかに寄るわけではないのだが、これから夜に向けて歓楽街らしい雰囲気をまといはじめる空気を吸うのは好きなほうだ。さて、まっすぐだ。横断歩道を渡ろう。

横断歩道を渡り、山口線線路を覆うにようにかかっている橋を渡りながらふと考えたのだが、先ほど僕は確かに「まっすぐ行こう」と考えたし、実際「まっすぐ」横断歩道を渡り、橋をこえて、山口線線路の向こう側へと抜けた。これはまったくおかしいところはない記述だ。でも、僕の身体動作を適切に記述したものではない。ちょうどこのとき僕の身体は歩道の上にあったのだが、横断歩道を渡って橋を渡るためには、都合4回身体を半回転させねばならない。つまり、4回「曲がらねばならない」のだ。でも、これらの身体の回転運動を「曲がる」と記述することもまたおかしいとは直感的にわかる。

要するに、どこかに向かうことを示す記述として、身体動作の詳細な記述は必要がない。冗長なのだ。かといって、身体動作が省略されているという言い方も適切ではない。まさにこの場所で僕が「まっすぐ行く」という現象において、たしかにこれらの身体動作は欠かすことができない構成要素なのだが、「まっすぐ行こう」という意思決定の記述にとり不必要なのだ。たぶん、道案内で「まっすぐ行ってください」というときも事情は同じだ。いちいち身体の回転に言及していたら道案内にはならない。

あるいはこんな言い方もできそうだ。「(この道を)まっすぐ行こう」という記述が言語的に過不足のない記述に見えるのは、「まっすぐ」という記述が適用される範囲において「曲がる」ということが起きないからだ。先に身体の半回転運動はそれだけでは「曲がる」と記述することは不十分だと述べた。じゃあどこからが「曲がる」なのだろうか?

たぶんこれは環境・状況依存的だ。この環境において「まっすぐ」と記述できる範囲をはみ出し、「まっすぐ」ではない方向へと歩みを進める動作性。これを認識すること(あるいはそうであることが予測できること)において、僕らは「曲がる」という記述に適切さを認めるのだ。もっとも、こうしたことは「まっすぐ行く」という記述においていちいち言及されない附帯事項のバリエーションのひとつであって、ほかにもいろいろあるはずだ。

ところで、こうした冗長さを回避をする記述がそれだけで十分であるように感じるのは、僕が視覚によって遠くを見渡せるということがかかわっている。視覚障害者にこの場所についての道案内をする場合を考えてみるとよいだろう。いろいろな説明の仕方があると思うが、信号音の聞き分けができる人なら、横断歩道の始点と終点をハイライトすればよいので、そのマーカーとして、横断歩道手前の縁石(およびその切れ目)と、横断歩道を渡ったすぐ先の欄干をピックアップして説明すると思う。さらに車音を使える人なら、「車道に沿ってまっすぐ」と付け加えるかもしれない。これらは視覚障害者がこの道を「まっすぐ行く」ために利用可能な資源としてピックアップされるものだ。もちろん、これらは晴眼者にとっても同じく「まっすぐ行く」ために利用可能な資源ではあるのだが、ひとつひとつハイライトされる必要のないものでもある。利用可能な知覚手段が異なれば、道案内というワークにおいて、同じ記述でも冗長だと感じたり、必要なものが省略されてしまっていると感じたりすることもあるのだ。

そんなことを考えながら、横断歩道を渡り、橋を越えた。それなりにややこしいことを考えながらの歩行であったが、不用意に止まることなく、また考え込んでいる様子も見せず、おそらく誰しもが「湯田温泉街方面に向かって歩いている人」とみるであろう素振りでただ単にまっすぐ歩いたのだった。

 

参考文献

Hall, T. A. and Smith, R. J. 2013. Stop and Go: A Field Study of Pedestrian Practice, Immobility and Urban Outreach Work. Mobilities 8(2), pp. 272-292.