生活の観察

Reasoning in the Wild

バレーボールの技術的詳細を「映像」を通して観察するということについてのいくつかの覚書

深夜の夜泣き対応中はゼロ歳児がいつ起きて泣くかわからない不確実性があるので、作業必要時間が長く、かつ集中力が必要な作業をすることはできない。そういうわけで、頭を使わず、途中で作業をやめてもなんの支障もない、とはいえそれなりに楽しめるものということで、最近はぼんやりとバレーボールのプレー動画を眺めている。30歳のときに仕事の関係で東京から京都に引っ越すまで、20年弱バレーボールをやっていたのだ。とはいえ、バレーボール自体は好きなのだが、テレビ中継を観るのはそんなに好きではない。

なぜなら、自分がプレイヤーとして見ていた景色と、テレビ中継を介して観るそれはずいぶん違うからだ。ひとつひとつのプレーに連動している観察可能なフォーメーション、身振り、手足の動き、体のひねり、視線、声掛け、サイン、ボールの軌道、ネットとプレイヤーの距離…等々がテレビ中継の「やり方」では十分に把握できるようになっていない。テレビ中継の場合、たいていは対戦中の両チーム全体が入るようにコートの側面から撮影された映像が映されるが、あの距離と方向と角度では、試合のその都度の組み立てに決定的に重要であるにもかかわらず「見えないもの」がいくつかあるのだ。

たとえば、テレビ中継の基本スタイルだと前衛のブロッカー、特にレフトとセンターはほとんど重なってしまうので、前衛3枚のブロックに関する動きがわからない。他の競技は知らないが、バレーボールは敵も味方も事前のさまざまな取り決めを資源としつつその場即応的に協調的に動いている。こうきたらこうするのだというパターンを徹底的に練習で覚え、基本的にはそのとおりに動く。ここで言うパターンとは、特定のチームや個人に帰属しない、すべてのチーム・プレイヤーに共有されている基本的なものと、対戦相手に応じて設計する応用的なものがある。いずれにせよ、ワンプレーごとにコートのなかの構成要素のすべてが協調的に連動しているという意味で秩序立っていて、全体をひとまとまりのものとして認識可能という意味で構造的で、これらが観察可能なものとして組織されているという点で再現性を備えているものなのである。僕はバレーボールがそういうものだということを知っているので、ブロッカーの動きが不明瞭な映像を見るという経験は、他人がやっているパズルを外部の観察者である僕にだけ部分的にマスクして見せられているようなもので、ややストレスである。

もっとも非参与的な観察は、往々にしてこのようなパズルを見続けるようなものなのだろう。次にどうすべきか、どうすればこれまでのプレーの流れを維持することができるのか、こうしたなかで誰をどのように識別するのか、身体や視線をどう動かすのか…こうしたことをうまくこなしながら秩序立ったアンサンブルを一定時間のあいだ一貫して組織するという課題に観察者は直接従事していないからだ。それはプレイヤーたちの課題である。とはいえ、他人がやっている外部からは不明瞭なパズルであっても、わかるものはある。たとえば「ここにボールが抜けてきたってことはセンターブロックがちょっと遅れたのかな」といった推測は映像的に見えていなくてもできる。ただしこうしたことは、知識と技術に依存している。

いささか前置きが長くなったが、今回分析的に考えたいのは、この「バレーボールの中継映像を、それなりの知識と技術をもつ(というか、かつて持っていた)『自分が』見る」という経験はどのようなものなのか、ということだ。

何を見たいか/見せたいか:プロの映像とアマチュアの映像の比較

バレーボールの中継映像はメディアのプロたちが多様な視聴者に対して作ったものだ。彼らが視聴者に何を見せようとしているのは、それ自体しっかりした分析が必要だが、ひとまず言えることは、アマの試合の撮り方はまったく異なっているということだ。↓の動画は、昨年開催された世界選手権(男子)の日本対キューバ戦の動画だ。TBS提供。再生すれば分かるが、基本はコートの側面から両チーム全体を捉える。得点が入ったときなどは別角度からの映像が挟まれる。

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一方、アマはプロのようなやり方で撮影しない。↓の動画を見てほしい。関東学連1部の早稲田大や筑波大のバレー部をアマと呼ぶことが適切かどうかは一考の余地があるが、とりあえずここで確認したいのは、コートの後方から撮影していることだ。

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コートの後方から撮影している理由は2つある。まずは会場の問題だ。アマの大会は、体育館に複数のコートを設置して、複数の試合を同時並行で行う。撮影者は基本的に観客席から撮るので、自ずとコートの後ろから撮ることになる。

もう一つの理由は、コートの後方から撮った方がプレイヤーの位置や動きがよくわかるということにある。アマでは、相手チームを分析したり自チームの振り返りをするためにビデオ撮影はよく行われる(あとは思い出のためということもある)。このとき、プレイヤーたちがコートのなかでその都度気にしていることが完璧でなくともそれなりに捉えられていることが重要だ。「前衛のブロックの動き」がちゃんと映っていない映像に分析的価値はないのである。

実際、プロとアマの動画を見比べてみれば分かると思うが、圧倒的にアマの映像の方が「見える」はずだ。ためしにYouTubeで大学のバレー部や地域のクラブチームがアップしているほかの試合動画を検索して見てみるといいが、基本的にはこのスタイルがほとんどであることがわかるだろう。

プレイヤーの格率を把握するということ

以上のように、プロの基本映像では、アマ・プロ問わずプレイヤーがコートのなかでその都度気にしていることが十分に捉えられていない。もっとも、こうしたことはおそらくは制作側も一定の理解があるはずだ。というのも、映像の基本シークエンスは、「引いて両チーム全体を収めた映像」をベースとして、サーブ権が移った少しの隙間時間に、サーブ権が移った決定要因(たいていはスパイクを決めた瞬間)を後ろ斜めもしくは後方からの別カメラでややアップ気味に撮った映像をスローで差し込み、そこに解説を加える工夫をしているからだ。この解説の挟みによって技術的・戦略的詳細のフォローアップをしている。解説がやっていることはさまざまだが、ここではプレイヤーの視点について明確に述べているケースを見てみよう。

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上記の動画では、日本側からサーブを打ったあと、それをレシーブしてセンターラインから入ってきたキューバのオソリア選手のスパイクに対して、日本のセンターの選手がブロックに入っている(実況:「ミドルブロッカーを使ってきましたが」)。続いて日本のセンターブロックにボールが引っかかり、ライト前衛あたりに落下してきたのをライト前衛と後衛が交差するかたちで拾っている(実況:「オソリアのスパイクをワンタッチかけてから拾って」)。そのボールはレフト後衛あたりに飛んだので、セッターではなく、レフト後衛にいたリベロ(白ユニフォームの選手)がレフトにトスを上げる。しかし、レフトスパイクはキューバにブロックされてしまう(実況:「だっ 石川がブロックされました」)。このときキューバ側はレフトに2枚ブロックしていることがわかるが、映像的には重なってしまっており、どのような状況かはわかりにくい。

このケースからまずわかるのは、実況は基本的にボールに変化が生じたタイミングで、その理由を「〜が」とか「〜て」という語尾を使うことで継起性を示すことで、プレーの切れ目までの流れを視聴者にわかるようにしているということだ。ただしそれは、ボールのまわりに限定されている。先にも述べたとおり、バレーボールはワンプレーごとにボールまわり以外のさまざまなものが連動している。だから、実況が言及する対象はプレー全体からすれば部分的である。僕の視聴経験の範囲では、ボールまわり以外のことに実況が言及するケースは、「試合の流れ」や「雰囲気」といったこと以外はほぼない。言ってみれば、バレー経験がなくても言及できる内容に終始していると言っていい。

解説は、実況が示した「プレーの流れ」の上に、さまざまな詳細を加える役割を持つ。先の場面の直後に、日本のレフトアタッカーのアタックがブロックされた映像がスローで差し込まれているが、ここで解説は日本の選手がキューバの選手にブロックされたことについて、以下のような苦言を呈している。

解説:(ブロックされた直後のタイミングで)ここですね。相手のブロックが非常に、あの見えずらい状況だったので、うしろから、何枚来てるとか、ストレート側とか、コールを、してあげるといいかもしれないですね。

実況:ええ。

スロー映像を見るとキューバのブロックが2枚がっちりレフトについていることがわかる。がっちり2枚ブロックがついた場合のレフトアタッカーの取れる手段はいくつかあるが、その場合「2枚ブロックがついている」ということを瞬時に理解していなくてはいけない。解説はそこに問題があることを指摘している。後ろ側からトスが上がったことでレフトアタッカーがブロックが見えない状況ならば、後衛の選手が声かけによって視覚の代替をすべきだ、ということなのである。こうした「視覚の代替」はバレーボールの経験があるほとんどの人が実践的に理解していることではある。実際、映像を見てもレフトアタッカーは自身の後方から飛んでくるボールを視線で追っており、キューバのブロックを見ることができない状態だったのは誰でもわかるだろう。

さて、解説がここで述べていることはじつは非常に高度なことである。そもそもスパイク動作は非常に難解である。日本バレーボール協会発行の『コーチングバレーボール:基礎編』でも、次のように説明されている。

空間で位置とタイミングをとらえ、ボールの軌道と自分の動きを合わせることは、空間認識、ボール軌道の予測、自分自身の動作の認識、タイミングなどの複雑な要素によって成り立っており、初心者にとってもっとも難しいことであるので、他の課題と同時に取り組ませることは避けて、最初のうちはフォームにこだわらない方がよい。

佐藤伊知子 2017, 154)

解説は、スパイクのこの難解な動作に加えて、通常「アタッカーはボールと相手ブロックを併せて見る」が、このケースはイレギュラーであり「ボールは見えているが相手ブロックは見えていない」ので、視覚代替を後衛選手が行うべきだと述べているのである。「できていなければいけないことができていない」ようなトラブルケースが発生した場合、解説はしばしばべき論に併せてプレイヤーの視点を示すことがある。視聴者にとっては、プレイヤーの視点を(媒介的に)獲得する貴重なタイミングである。しかし、そこでのプレイヤーの視点への言及がバレーボールの格率とでも言うべきものに立脚していることまでは明示的には語られないから、そのような「繰り返し利用可能な」知識獲得の機会として解説の話を聞くことができる視聴者はそう多くないと思われる。

たとえば、「アタッカーはボールと相手ブロックを併せて見る」ことは、バレーボールの教科書にはほとんど書かれていないか、言及なしの前提となっている技術である。一方で、こうしたことをプレイヤーがやっていることは、ある程度のバレーボール経験をもつ人なら「常識的にわかる」ことでもある。より踏み込んで言うなら、「プレイヤーはプレイ中、ボールと併せてXを見よ」というのは、バレーボールのプレイを貫くもっともベーシックな格率のひとつである。それができていないことが一度露見すれば、それは問題として認識されるか、能力の欠如として理解される(要するに「下手」ということである。なお、だからといって道徳的に非難されるわけではないので、「格率」という言葉の使用は適切ではないかもしれない)。

バレーボールのプレイヤーは「ボールと併せてXを見る」という基本的な視覚スタイルでプレーしているという知識を一度もてば、実況や解説が特段それに言及せずとも、また映像的支援が十分でなくとも、コート内で起きていることの見通しがある程度よくなるはずだ。その練習として、実況にも解説にもプレイヤーの視点の言及がない、先の場面から続く場面を見てみよう。

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この場面は、キューバからのサーブを受けて、日本の選手がバックセンターからスパイクを打ったところから始まる(実況:「シフトはまだバックセンターに」)。このスパイクはキューバのブロックに引っかかり、キューバコートのレフト前衛あたりにボールが落ちる(実況:「ワンタッチかけて、そして」)。それをレフト前衛の選手が拾い、セッターがトスを上げる。トスが上がったのはバックライトにいたキューバの選手エレラで、エレラはバックアタックを打つ(実況:「今度はバックライトからエレラーーーーー!)。

この場面でも同じく、実況はボールまわりの動きのみに言及している。引きの映像だとネットまわりで何が起きているかわかりにくいが、このシーンの直後に差し込まれたこの場面の別カメラによるスロー映像を「プレイヤーはプレイ中、ボールと併せてXを見よ」という格率のもとでプレーしているという知識をもって見ると、ここで起きたことがそれなりにわかるようになる。

スロー映像を見ると、日本のブロッカーは、レフト、センター、ライト(映像では見切れている)に広くポジションをとっていることがわかる。このポジション取りは、キューバ側の選手がバックライト・バックセンター・前衛レフトの3方向からスパイクを打つ準備動作に入っていることを見てとってのことだろう。このとき日本のセンターブロックは右手を挙げ、ライトブロックの選手に「こちらに寄ってくるな」とジェスチャーで示している。こうして、誰か特定の選手にブロックを集めるのではなく、均等にブロックポジションをとるスプレッド・シフトをその場で選択したことが見て取れる。

また、センターブロックがクイックを警戒した決め打ちブロックを飛んでいないことから、日本のブロック戦術はリードブロックである(決め打ちで飛ぶのをコミットブロックと呼ぶ)。リードブロックは相手のトスが上がったところにブロックがそれを追いかけて飛ぶ戦略である。教科書的には次のように説明される。

[リードブロックは]セットアップに反応するので、その前に起こっている事象に右往左往しない。世界標準の追い方だ。

(高橋宏文 2019, 99)

この説明はやや不明瞭である。「その前に起こっていることに右往左往しない」ということがどういうことなのかはよくわからないのではっきり述べることはできないが、もしそれが「セットアップ前の相手チームのプレイヤーの動きを気にしない」ということならおそらく間違っているように思う。このスロー動画を見てわかることは、キューバ側のセッターがボールに触れる前に、日本側のレフトブロッカーはキューバ側のバックライトの選手を見ていて、日本側のセンターブロッカーはキューバ側のバックセンターの選手を見ていることである。キューバ側のセッターがトスを上げた瞬間に日本側のセンターブロッカーはトスが上がった方向、すなわち日本側から見てレフト側に視線を向け、そちらにブロックを飛ぶ準備動作に入っている。そしてレフトブロッカーにやや遅れてセンターブロッカーもレフト側に飛ぶが、相手のバックライトからのアタックがクロス方向に抜けてしまう。

いくつか専門用語を交えて解説してしまったが、こうした理解までは至らないまでも、ひとまず「プレイヤーはプレイ中、ボールと併せてXを見よ」という格率のもとでプレーしているという知識に即して映像を見れば、映像で確認可能なプレイヤーの視線の動きに関心が向くだろう。ボールの動きだけを追う実況的なものの見方から脱却することができる。実際、プレイヤーの視線の動きから、この場面でひとまず前衛のブロッカーが何を気にしていて、少しセンターブロックが遅れた理由が合理的に理解できるようになったはずである。

ちなみに、このスロー映像が挟まれた場面では、実況と解説は以下のような「気持ち」の問題について話しており、プレーの技術的詳細については実況と解説のやり取りを聞いてもわからない。

実況:キューバが第四セット息を吹き返すような序盤の入りです。

(約2秒無言)

解説:あれまあよくあることなんですけど3セットめ、あれだけ点数が離れてると、逆に気持ちの切り替えができるんですよね。

実況:そういうもんですか。

解説:はい。

この場面で起きている技術的詳細をアマレベルで理解するためには、最低限、「プレイヤーはプレイ中、ボールと併せてXを見よ」という格率のもとでプレイヤーが動いていることを知っている必要がある。そうでなければ「キューバの攻撃が日本のブロックを交わした」というレベルでの理解にとどまることになる。

かつて、バスケットボールのエスノメソドロジー研究をしたダグラス・マクベスは、その論文のなかで、30年以上のバスケット経験を持つ自分自身でも観察者の立場から技術的詳細を把握することは困難を伴うし、プロのプレーの場合3回目のパスの時点でプレーを見失うと述べている(Macbeth 2022, 62)。これは、困難ではあるけれども観察者から把握できる技術的詳細はいくらかはある、という主張だとみなすこともできる。僕がここまでで述べてきた格率はまさにそうしたレベルのものだ。

ところで、マクベスはこの記述をした箇所で「バスケットボールがなぜこれほどまでに観客を魅了するスポーツになったのか疑問ではあるが、それを探求する手がかりがない」という内容のことも併せて述べている。バレーボールも同じである。とはいえ、完全に謎に包まれているわけではない。わかることは、視聴者はここまで僕が述べてきたような技術的詳細には関心がなく、映像制作側もその提供に大きな価値を見出していないということだ。おそらく彼らは別のことを楽しんでいる。僕は一方で技術的詳細をできるだけ特定しようと映像を見つめている。

マチュアとプロの言語体系

最後に、やや予断ではあるが、僕の記述が「アマチュアレベル」に留まっていることについて若干の考察を加えておきたい。

じつはここまでの記述は、アマチュアの語法ともいうべきもので書かれている。アマチュアの多くは、プロのバレーボールプレイヤーとはいくぶん異なる世界観をもっている。結論を先取りして言うと、アマチュアの多くは「位置」と「役割」を重ねて理解するが、プロはそうではない、ということに尽きる。

バックアタックが戦法の選択肢にない」という例を通してこのことについて整理する。バックアタックとは、後衛のプレイヤーがセンターラインを踏み越えずに攻撃に参加することを指す。これをやるには背丈やジャンプ力、そして技術が求められるので、アマチュアでこれができるプレイヤーはかなり限られる。加えて言えば、セッターの対角に左利きのバックアタックができるプレイヤーを置くことができれば、どんなローテーションでも常に攻撃を3枚揃えることができるが、バックアタックもできる左利きのプレイヤーが自チームにいることなど、一部の強豪を除いてないのである。一方プロでは、バックアタックができるのはアタッカーの基本スキルであるし、左利きの選手も在籍していることも多い。その中でももっともアタックのスキルが高い選手がセッターの対角に置かれることが多い。

セッターの対角にバックアタッカーを置けるチームは、そのプレイヤーをアタック専従にする場合がある。そうしたプレイヤーをスーパーエースまたはオポジットと呼ぶ。同じくセッターの対角に置かれる選手でも、攻守双方の場面でレシーブに参加する選手はただのライトである。セッターの初期位置はたいていは後衛ライトなので、その場合はどちらも表現できる言葉として、セッターの対角という意味で「オポジット」はどちらも使えるはずだが、現在は主にオポジットスーパーエースと同義で使用されていることが多い。なお、セッターの初期位置がセンターだった場合でも、その対角のポジションに対してスーパーエースオポジットは利用できる。つまり、スーパーエースオポジットはセッターの位置に対応した呼称であって、ライトポジションに固定化された言い回しではない。

ところが、アマチュアにはそのような豊富な選択肢がないことが多い。したがって、チームでもっとも強打が得意(かつバックアタックが打てない)選手はレフトに配置され、ライトは器用あるいは左利きの選手が配置されることになる。相手レフトの攻撃のブロックに参加するので、ストレートラインをブロックでうまく防げる選手が配置される場合もあるだろう。ともあれ、ライトに左利きの選手が配置されるのは、ただ単にライトに上がったトスは左利きの方が打ちやすいから、という理由が主であろう。

だからアマチュアの経験者間で話すとき「昔はレフトでした」と言えば「あー、エースだったの?」と言われるし、「昔はライトでした」と言えば、「左利きなの?」と言われることがある。「昔はライトでした」と言ったとき、「じゃあスーパーエースだったんだ」と言われることはまずない(よほど背が高いということがあれば別かもしれない)。アマチュアではこうした解釈のドキュメンタリー・メソッドが用いられるが、プロはそうではない(そもそも自分の役割について位置表現で述べること自体がアマチュア的である)。

プロチームや各国代表チームのプロフィールを少し調べればわかると思うが、選手にはそれぞれ役割(セッター、アウトサイドヒッター、オポジットミドルブロッカーリベロ)がプロフィールに書かれているが、位置(レフト、センター、ライト)についてはまず記載されていない。

僕自身で言えば、背丈・跳躍力・技術がまるで異なる人たちのプレーを見ても何の参考にもならないという理由から、現役プレイヤーであったときはほとんどプロのプレーを分析的に見ることがなかった。テレビでもプロの試合は積極的には視聴していない。自分よりもちょっとだけ上の人たちのプレーを参考にしてきた。つまり、アマチュアの世界のなかだけでやってきたということだ。プロの語彙を随分長く獲得しないままキャリアを進めてしまった。だから、今でも位置と役割の分離を前提とした記述は理解が少し大変だ。上述の記述も、ほとんどアマチュアの語彙で書いたものだ。たとえばキューバのエレンは明らかにオポジットスーパーエースなのだが、それについては言及しなかった。

ただ、プロの語彙で書かなかったことからといって、まったく見当違いの記述になるわけではない。あくまでもアマチュアの世界観を基盤としてプロの世界観は構築されている。だから、たとえば「プレイヤーはプレイ中、ボールと併せてXを見よ」という格率自体がプロにおいて覆されることはそうないだろう。実際、そのもとで理解可能になる場面はかなり多い。ただし、それはやはり限定化された詳細の理解であることは間違いない。図4の事例で言えば、キューバは後衛から2枚、前衛レフトから1枚攻撃のセットアップに入っているが、こんなシフトで攻撃布陣が形成されるケースに僕は一度も試合で遭遇したことはない。だから、守備側である日本の前衛が何を気にして観察可能なブロックポジションを形成しているのかということまではわかるが、それがどのような戦術のもとでパターン化したものか、ということまでは推論が及ばないのである。チームのなかでこうした布陣に対する議論をしたことがないのだ。

10年ほど前に東京の国体予選で某V1リーグのチームと対戦したとき、彼らは当然のようにバックアタックを攻撃に組み込んできたのだが、それにどのように対応してブロックすればよいかかなり戸惑ったことを覚えている。どう考えても彼らはレギュラー陣ではなかったが、控えでもこれぐらいはやってくるのがプロである。頭では基本知識として分かっていることがあっても、普段対応していないことには体がうまく動かないのだ。結果として何もできずに負けたことを思い出す。

だんだん話が脱線してきたのでここらで筆を置くことにするが、どのような人が、何を、どのように見ているのか…という観点は、メディア視聴の分析においてかなり面白いトピックなのではないかと思えてきた。深夜の夜泣き対応でなんとなく始めたバレーボールの動画視聴であるが、僕はそこでこんなことをやっているのであった。映像を見る能力についての議論は、こうした多様な視聴者をどれほど考慮してきただろうか?

 

参考文献

Douglas Macbeth, (2022), "Appendix 2: Some notes on the play of basketball in its circumstantial detail." In Harold Garfinkel, Harold Garfinkel: Studies of Work in the Sciences, New York, Routledge, 58-70.

佐藤伊知子(2017)「バレーボールに必要な基本技術とその練習法」公益財団法人日本バレーボール協会編『コーチングバレーボール:基礎編』大修館書店, 121-178.

高橋宏文(2019)『マルチアングル戦術理解 バレーボールの戦い方:攻守に有効なプレーの選択肢を広げる』ベースボール・マガジン社.

ルールを破っていいのは誰なのか

5歳児と近所の博物館に行った日のこと。暑いなか電動自転車の後ろに5歳児を乗せ、きゅうきゅうと軋む車輪の音を聞きながら坂を登り、目的地の駐輪場に到着した。さて降りてくださいな。あ、建物のなかに入るからマスクつけとこうな。暑いけどな。そういう僕の話を聞いていたのかいないのか、5歳児は「中に入ってはいけませんって書いてある」と言った。視線の先を見ると、なるほどたしかに「危険! 進入禁止 中に入ってはいけません」と書いてある。

危険! 進入禁止 中に入ってはいけません

読めるぞとなったらなんであれ目につくものを端から声に出して読んでみてそれを親に報告する。こうしたことは5歳児の常である。だから、この発話が何かの前置きであるとも思わず、僕は「そうだねえ」と気のない返事をしてこのやりとりを終わらせようとした。

しかし今回はそうではなかった。「中に入っちゃだめなのに、中に自転車がある」と言うのだ。囲いの中に自転車があるからには、誰かが入ったに違いない。でも、中に入るのはだめって書いてある。ならば、これはよくないことなのではないか、ということであろう。

言われてみればそのとおりなのだが、一方で、僕はまったく気にならなかった。むしろ、なんでそんなことを気にするんだとすら思った。この受け取り方の違いはどういうことなのだろうか。

特定の「命令」が明示されている空間に身を置いたからには、それがおかしいと判断可能なものが見出されない限りはひとまず従う。だから、「中に入ってはいけません」ということなら、入らない。ただそれだけなのである。この命令が過去にも徹底されて守られたかとか、今後も守られ続けるかどうかといったことは、ひとまずこの場で適切に振る舞うという当座の課題においては関係がない。我々は適切な場所に、適切なやり方で自転車を停めた。それでおわり。

その場その場のルールには敏感でいる一方で、それに自身が従うということに直接関連しない事柄や出来事に逐一意識を向けたり拘泥したりしないことは、日常生活を滞りなく送る技法のひとつだ。僕の「気にならなさ」の理由はこうしたことだろう。

しかしそれでは5歳児は納得しないだろうから、別の合理的な説明を与えればよい。たとえば、何かを禁止するという行為において、禁止した側はしばしば自身を例外化することができるということは、この社会において明文化されてはいないが、共有された知識のひとつだろう。この線でいってみようか。この禁止の張り紙を剥がし、この場を進入可能にすることができる人がいる。それは禁止した博物館の人だ、というように。

そういうわけで、ひとまず「博物館の人がやった」という説明を与えておけば5歳児も納得するだろうと思い、「博物館の人が、放置自転車だかをここにおいたんじゃない?」と言ってみた。

しかし5歳児は釈然としないようであった。どうやら、博物館の人も「中に入らないでください」という命令の宛先であると考えているようなのである。ひとたび禁止されたからには、何人たりとも、それを破ることは許されない。ルールというものをこのように捉えているような節が見受けられた。だから、仮にこの自転車を博物館の人がここに置いたとしても、それはルール違反であることには変わりはない、と。

親としては、この社会でうまく生きていくために、社会のルールなるものを折に触れて子どもに教える。だから「進入禁止」と書かれた看板なり貼り紙なりを見つけたら、それを守るように子どもにその場で教えるし、違反しようものなら注意する。でも、ルールを作った側はそのルールの適用外になることがしばしばあるということはどうやったら教えたらいいのだろうか。

「進入禁止」という命令に対して、これは「これを貼った自分たち以外は進入禁止」という意味だよという理解の仕方は、ルールというものを額面通り受け取るならば、たしかにずいぶんとおかしい。5歳児が納得しない理由はよくわかる。でも、社会生活をうまく送るという点からすれば、むしろそのように理解できるようにならないと大変だ。

多くの大人はそうしたことをどこかで学んできて、それを適切な場所で、適切に適用することができる能力を有している。でも、物事の習熟は、それを説明する語彙の獲得を常に併せてもたらすわけではない。このケースは、まさにその一例と言えるだろう。

親になることの一面は、こうした、いちいち言葉にする機会も動機もない、すっかり習熟した諸々を言語化する出来事に何遍も遭遇することなのだ。僕たちは、もっと社会のことを(説得的に)説明する言葉をもたねばならない。しかし、どうやって?日々模索するしかないのだ。

路上に置かれたレンガとビールケースの意味:状況とその変化を説明する方法について

帰宅途中、商店街のアーケードのなかを歩いていたら、黄色いビールケースに入れられたレンガを見かけた。ビールケースには「おとし物です」と書かれた紙が貼られている。それを見て、「レンガが落としものなんて、なんかめずらしいな」と思い、写真を撮った。

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路上にぽつんと置かれたレンガは、たいていは重石として使われている。周囲の状況からその利用可能性を見出すことができい場合もある。しかし、多くの人工物と違って「落としもの」として扱われることはあまりない。明らかに誰かがそこに放置したように見えても、路傍の石よろしく、ただそこにずっと鎮座していることがほとんどだ。かといってゴミとして処分しにくいものでもある。燃えるゴミでも、燃えないゴミでも、プラスチックゴミでもない。だから放置される。

この点からすれば、街なかにぽつんと置かれた用途不明のレンガは、街なかの人工物に張り巡らされた秩序の隙間をついた事物といってもよい。そんな無害なのにアンタッチャブルな事物ことレンガに貼られたラベルがよりによって「落としもの」なのである。家に帰ったら「レンガなのに、落としものだって!」と報告しようと、意気揚々と家路についた。

「レンガなのに、落としものだって!」という報告形式は、「レンガ」と「落としもの」の結びつきについての私たちの常識的知識を前提としている。たいていは結びつかないものが結びつくものとして扱われていること、このことが共有できているならば、他者の笑いを引き出す第一歩だ。もっとも、それが本当に笑いを生み出すほどのおもしろさを湛えたものかどうかは別の話なのだが(悲しいことに、笑いはまったく取れなかった)。

さて、注意深く画像を見る人は、ここまでの僕の講釈に対して違和感を覚えただろう。実際、僕もいまやこのレンガを「落としもの」としては見ていない。あくまでも写真を撮った時点での状況に対する僕自身の理解について、つらつらと書いたものだ。この写真を撮ったとき、もっと類似のケースを収集して、「人工物と自然物のあいだ:街なかのぽつんと置かれたレンガについて」という題名で小論を書けると目論んですらいたのだが、残念ながらこのレンガは落としものではない。

 

写真を撮った日の夜

写真を撮ったその日の夜、寝る前に写真を見返したとき、ふと気づいた。落としものはレンガではないのではないか。ビールケースに貼られた「おとし物です」と書かれた紙のうしろに何かビニール袋に入ったものが見える。どうやらえんじ色のネクタイのようなものみたいだ。となると、透明なビニール袋に入ったえんじ色のネクタイ状のものが落としもので、レンガは重石なのではないか。写真撮影時は手書きで「おとし物です」と書かれた紙にばかり気が向いていて、ビニール袋の中身は見落としていた。

落としものは、ビニール袋に入ったえんじ色のネクタイ状のものだという理解がもたらされた瞬間に、この写真の見え方はまったく変化した。もう少し詳しくいうと、ゲシュタルトを構成する部分の意味とそれぞれのつながり方が変化したのである。

まず、写真撮影時、レンガは落としものに見えていた。ビールケースは、落としものを入れる箱。箱にレンガが入れられることにより、レンガが誰かの所有・管理物である見立てが高まる。そして「おとし物です」と書かれた紙のラベルは、ひとたびレンガを落としものとして理解したならば、それを指すものだと理解できる。ビールケースが落としものなのではない。紙のラベルがビールケースに貼られている理由としては、この落としものを拾ったのがビールケースの所有者または管理者であったからではないか。公共物にガムテープを貼るのは通常抵抗があるが、紙のラベルはガムテープでビールケースに貼られているので、この見立ての蓋然性はまあまあ高いだろう。写真撮影時、僕はこのように見た。

一方、その日の夜の「見え」はこうだ。レンガは重石である。ビールケースは重石を入れる箱。「おとし物です」と書かれた紙のラベルは、その真裏にあるビニール袋に入ったネクタイ状のものが落としものであることを示している。ビニール袋に入ったネクタイ状のものを落としものとして誰もが認識できるようにするための方法は案外難しい。路上にポイッと置くのは荒っぽいし、風で飛んでいってしまうかもしれない。落とし主が戻ってくる可能性を考えれば、落ちていた場所にほど近いところに固定することが必要だ。かといって、ガラス壁に貼るのも、それが公共物だから難しいだろう。じゃあ手近にあるビールケースに貼ればいいのではないか。ビールケースが風に飛ばされたりしないように、重石としてレンガを入れればよいだろう。よし、これならいけるぞ。…拾い主の善意による作業は、ざっとこんな感じだろうか。ブリコラージュっぽいな。ここまで推論することができた。

ありあわせのもので状況と必要性に応じてそのときの課題を何とかやりくりすることを、レヴィ・ストロースは「ブリコラージュ」と呼んだ。そのやりくりにおいて作り出されたブリコラージュ的事物は、状況と必要性に応じて柔軟にその形や構成を変える。一方で、集められた個々の事物は、それぞれ何らかの支配的な意味を持つものがほとんど*1なので、ブリコラージュ的事物を一瞥した通行者は、ブリコラージュ的事物を構成する個々の事物がもつ支配的意味に引っ張られて、一見これがなんなのか、把握するのに少し時間がかかったり、間違った見立てをもつことがある。

今回の事例で言えば、ビールケースはやはりその支配的安定性である「箱」としてまず見てしまう。そこに「おとし物です」と書かれたラベルが貼られているの見たならば、ビールケースは落としもの入れ箱として見てしまうだろう。それに加えて、中に入っているのがレンガという、街なかの曖昧な事物だったわけで、それをわざわざ箱に入れて落としものだと公知するという仰々しさに意識がいってしまうのも仕方ない…のかもしれない。

写真を撮った日の夜、僕のゲシュタルトが一変した経験をその場で振り返りながら、こんなことを考えていた。しかし、まだこの話は終わらない。

 

定点観察によって見えてきたこと

このネクタイ状のものは今後どうなってしまうのだろうか。そんな興味を覚えて、帰宅時に毎日この場所を通ることにした。ある日、ネクタイ状のものはなくなった。落とし主が現れたのかな。だったらいいな。おしまい。

…と思いきや、驚くことに、ビールケースとそのなかに置かれたレンガは、ずっとそのまま所定の位置に置かれたままなのに気づいた。定点観察の賜物である。

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僕はこのビールケースの行方をそれほど本気で追っているわけではないので、ただ帰宅時に見るようにしているだけだ。だから詳細はわからないのだが、おそらくこのビールケースとレンガは、何か具体的な役割が与えられていて、そこにずっとある事物なのだろう。たとえば、20時以降は駐車場に通じたガラス戸を閉じるので、そのバリケード的に使われているのかもしれない。このビールケースがある場所は、実は今回落としもので注目する以前から帰宅時にほぼ毎日通っていた場所なのだが、僕の帰宅行為とかかわりあうことがなかったために、その存在に気を止めることはなかった。もしかすると、今回その存在に気づく前からずっとここにあったのかもしれない。

それはともかくとして、わかったことは、このビールケースとレンガは、ネクタイ状の落としものを固定するため「だけ」にその場の創意工夫で作られた事物ではない可能性が高いということだ。おそらくはもともと何らかの用途があってそこに置かれた事物を、落としものを置くための場所「としても」利用した、ということが真相に近いと思われる。

 

状況の理解の変化や差異を理解可能にするゲームを支える格率とその方法

さて、ここまで、ビールケースとレンガの定点観察における僕の「見立て」の変化について記述してきた。ある要素を発見したとき、劇的にその「見立て」が変化していることがわかると思う。

こうした事実をもって、「ちゃんとじっくり観察しないとダメだよ」とか「クイック&ダーティな観察ではなくて、一定期間しっかり観察しないとダメだよ」という、誰でも言っているようなフィールド観察論を展開することもできるかもしれないが、それは今回の記事にとってどうでもよい。

今回、時系列的に「見立て」の変化を並べてみて驚いたのは、僕自身の、眼前の状況をとにかく合理的に理解しようとする態度と、個々の、そしてその出来事の変化に対してなされた説明の合理性だ。実際、時系列的に見れば、見落としていたことや、パッと見では発見できない事実がそこにはあった。しかし、どの時点の記述も、状況の理解として不足があることは遡及的に指摘可能であるにしても、いずれも支離滅裂ではないのである。さらには、「見立て」の遡及的修正もまた、それなりに「わかる」ものになっている。

つまり、その都度の状況の理解と変化を合理的に説明する方法がそこにはあって、それをいずれの時点の記述においても、僕はうまく使いこなしている、ということである。その説明は、おおよそ以下の格率のもとで組織されているのではないか。

  1. 合理的に理解できるのなら、ひとまずそのように理解すること。
  2. 一度入手した見立ての合理性を、それが覆されるまで一貫すること。
  3. 入手した見立ての合理性を基盤に、それにかかわる事物・人物・出来事・活動・歴史の理解可能性を推論すること。
  4. 新しい事実の発見をもって、その時点での見立てを修正する必要があるならば、その必要性の理解可能性を担保した記述によって修正すること。

こうして書くとあまりに当たり前のことを書いていると思うだろう。事実、あまりに当たり前のことなのである。僕も書き出してみて、なんて当たり前のことなんだと思いながら書いている。しかし、これが「状況を理解し、説明すること」をめぐるゲームの基本的なルールなのである(もちろん、ここで挙げた格率がまったく十分かというと、まだまだ吟味が必要だとは思うが)。これがうまく運用できなければ、説明という行為は成立しないし、その説明を聞く相手からも「なにが起きてるのかぜんぜんわからない」と言われてしまうだろう。ましてや、状況の理解やその変化をそれとして記述することはできない。

状況の理解やその変化を理解可能にするゲームは、こうした共通したルールと、それを組織し維持する具体的な方法を基盤としてなされている。状況の理解やその変化の記述は、その記述の目的が状況を理解してもらうとか、変化を理解してもらうことだから、僕たちはどうしてもそれに注目してしまう。でもそれは、状況の理解やその変化を理解可能にする基盤的な方法というのがあってこそ成立していることなのだ。僕たちが他者と共に在ることを可能にする方法の探求というのは、こういう方向での検討が必要だし、それは非常に基礎的な取り組みとなるだろう。

 

参考文献:

Ihde, Don., 1999. “Technology and Prognostic Predicaments.” AI & Society, 13: 44–51.

*1:現象学者のDon Ihde(1999)は、ハンマーを例に、事物の支配的意味について次のように説明している。たとえばハンマーは釘を打つなどの、工作における使用を目的して作られている。一方で、ハンマーを文鎮として使ったり、展示物として飾り立てたり、暴力行為の道具として使うこも可能である。このように、ハンマーにはそれぞれの用途の文脈に応じて適切な意味を与えることが可能である。このことをIhdeは複数安定性(multistability)と呼ぶ。ただ、先述のように、ハンマーには適切だとされる用途(=工作での利用)がある。これを支配的安定性(dominant stability)と呼ぶ。それ以外の用途は、十分に発展した代替的安定性(well-developed alternative stability)と呼ぶ。

「切りたい」から「お手伝いしたい」へ:幼児の「社会参加の技法」の習熟

台所でコマコマと家事をしている僕のところにときどきやってきて、「なにかお手伝いしたい」と四歳児が言う。もっと具体的に「お皿一緒に洗いたい」と言うこともある。包丁なんかを洗っているときは「ちょっと包丁が危ないからなあ」と僕が返したりすることもあるからか、先んじて「お皿洗うの見たいだけ」と言ってくることもある。

ついこのあいだまで、自分がやりたいことをそのまま表現していた。たとえば「お皿洗いたい」「切りたい」「(炊飯器に)お米入れたい」とか。それがいつしか「お皿一緒に洗いたい」「なにかお手伝いしたい」と、目の前で行われている作業に対する理解と四歳児と僕の関係を読み込んだ表現になっていたのに気付いた。

特に「なにかお手伝いしたい」は興味深い表現だ。台所仕事は分類しようと思えばいくらでも細分化して表現できるし、目的によってその工程もさまざまだ。しかもその工程は我が家の台所の設計や道具の配置に最適化とは言わないまでも、適応させた独特のものだ。それは、我が家の生活サイクルともかかわっていて、15時に台所に立ってやる「おやつの準備」の作業と17時にやる「夕飯作り」の作業とは、似通っている部分はあっても、細部はまったく違う。なんなら、昨日の「夕飯作り」の作業と今日のそれもまた同じではない。

その意味で、ひとつひとつ目の前の作業を適切に表現するのは大変だ。でも、幼児でもできる方法がある。それは、目の前でいままさに行われている作業を単純な動詞と願望を示す「〜たい」を組み合わせてを使って表現することだ。「切りたい」「洗いたい」「入れたい」…これらは、作業工程など複雑なことを一切理解していなくても言える。それに対する親の反応は、基本的にはyes/noだ。代案を示すこともあるが、この発話形式は、指示された特定の対象に対する許諾をまずもって要請するものになっているからだ。

さらに言えば、このような幼児の要請の表現形式は、幼児が目の前の作業の「目的とプロセス」についての知識がないか、それを適用させることができていないことを親に推論させる資源になることもある。だから親は要請に対するyes/noを述べつつ、たとえば「切る」という作業がいかなる目的とプロセスに位置付けられているものなのかを教示することもある。「いま麻婆茄子作ってて、ニンニクと生姜をうんと小さくたくさん切って胡麻油で少し炒めてからナスと豆腐を入れたいんだけど、もうナスも豆腐もニンニクも切り終わっちゃって、あとは生姜だけなんだよね。でも生姜をうんと小さく細かく切るのはまだ君にはちょっと難しいからね」といった具合だ。

ではそれと比べて「何かお手伝いしたい」はどうか。まず指摘できることは、これは他人がやっているすべての作業に対して使える表現だということだ。具体的な作業を指示しないことによって、「何か」の部分に何が入りうるかを親に委ねる形式になっている。これは非常に巧妙だ。お手伝いの対象になりうるものはいくらでもあるからだ。親は「何か」に該当しうることが現状の作業のなかにあるかどうかをいったん考えて返事しないといけない。

もうひとつ指摘できることがある。それは、相手の活動に加わろうとする態度がそこに含まれていることである。そこには、おそらく以下2つの理解が含まれている。

  1. 眼前の親が従事している作業が、なんらかの目的とプロセスのもとでなされている活動の部分であることそれ自体への理解。ただし、活動の目的とプロセスに対する理解が不十分であっても問題にはならない。
  2. その活動に何者として関わっていくかということ、すなわち当該活動における適切な人間関係のあり方への理解。お手伝いの申し出は、従属的なかかわり方を含意している。

こうして考えてみると、「なんかお手伝いしたい」は、「切りたい」「洗いたい」「入れたい」という欲求そのままの表現と比較して、四歳児はずいぶんと高度なことをやっているようにみえる。

「お手伝いする」という表現の面白さについて、ハーヴィ・サックスは講義録で次のように述べていた。ちょっと長いが引用しよう。

動詞の使い方で不思議なことがある。昼食会に行って、そこでお給士してくれる人に出会ったとしよう。彼らは自分たちがやっていることについて、「私はXを手伝っています("I'm helping X.")」と表現するだろう。つまり、「Xを手伝っている('helping X')」というのは、実行可能な仕事の範囲に対する操作なのである。もしXが主人役を務めているとしたら「X氏を手伝っている」ということになろうし、Xが皿洗いを指すなら「Xを手伝っている」ということになるだろう…など、あなたが報告することは、あなたがやっていることがどのような経緯でそうするに至ったのかということで、その点であなたがやっていることははっきりしているのだろう。皿を洗っているのか、給仕しているのか、それとも他のなにかをやっているのか、人びとはあなたがやっていることを完璧に見ることができる。そしてあなたが報告するのは、誰かの責任を参照することにより、あなたがどのようにしてそれを行うに至ったのかということだ…[略]…この類の言葉は、たとえばあなたがやっていることの記述はあなたを見ている誰かによって観察可能ではないということ、このことを含んでいることが興味深いのである。つまり、もしあなたが記述することになったら、「昨日私は皿を洗った( "Yesterday I washed dishes. ")」ではなく、「昨日メアリーを手伝った("Yesterday I helped Mary")」とするだろう。

( Sacks 1992, 150 ※下線と太字は筆者による)

サックスの言い方はもってまわっているが、もう少し噛み砕いて述べると、次のようなことになるだろう。スナップショットを見たときのような記述の仕方がある(=「昨日私は皿を洗った)。一方で、スナップショットを見たときのような記述に含まれた情報は提供せずに、特定の活動における他者とのかかわり方であるとか、その中での責任と義務の不均衡な配分の存在、こういったことを情報として含む記述の仕方(=「昨日私はメアリーを手伝った」)がある。両者は記述としてどちらも間違っていないし、両立するが、その含意するところが異なる。動詞の使い分けは、こうしたことを可能にしている、ということだ。こうしたサックスの思索は、引用した箇所では代名詞の使用や、代名詞を文字に置き換える論理学の実践への(批判をにじませた)言及まで展開するところで尻切れトンボで終わるのだが、ひとまずそれは置いておこう。

私たちの社会には「お手伝い」のように、他者との特定の関係のあり方を読み込みことが可能で、かつ個別的に見ればそれぞれ異なる実践に対して適用可能な言葉とその用法が山ほどある。いつどのタイミングでそうなったのかはわからないが、四歳児がそれを使うことができるようになったこと、このことに本当に驚いたのだった。

社会参加の技法に習熟していくこと、おそらくこうしたことが大人になるということの道程なのだろう。その技法的習熟度合いをもって私たちは他者の「能力」を推し量ることもできる。「切りたい」から「なにかお手伝いしたい」への変化に対する驚きは、四歳児の社会参加の技法的習熟に対するものだった。四歳児に対する「ずいぶん成長したんだなあ」という感慨は、こうしたことからもたらされている。あのときの僕の驚きを省察すると、おおよそこういった感じになるだろうか。

子育て中だということもあって、最近心理学や人類学の子どもの発達についての研究論文を趣味的にちょくちょく読む。有名どころでは、乳幼児による「お手伝い」は内在的動機によるもので、外的報酬はかえってその内在的動機を弱めてしまうことすらある…といった実験心理学的研究がある(Warneken and Tomasello 2006)。これは心理学の実験による成果だが、WEIRD(Western Educated Industrialized Rich Democratic Societies)社会以外での「子ども」を対象とした人類学の民族誌にも、ワーネケンとトマセロの主張を支持する記述をたくさん見つけることができると人類学者のランシーは述べている(Lancy 2020)。

こうした成果はいずれも興味深い。幼児期の「お手伝いしたい」という気持ちがむくむくと湧き上がってくること、このことは人類に共通してみられることなのだと言われると、たしかにうちもそうだわ、と思う。実際、うちの四歳児も「お手伝いする」を連発している。しかし、ここまで述べてきたことは、子どもの本質論以外の論点を示すものでもあったように思う。

ここまで見てきたように、「お手伝い」という言葉の使用は、社会、すなわち他者との共同生活に適切に参加する技法のあり方の一端を示すものだった。僕は、四歳児の振る舞いと言葉の用法から、自分自身がすでに使いこなしていて、その意味でいちいち注意が向けられないような「社会参加の技法」をあらためて特定し、記述する機会を得ることができたということでもあるだろう。

ほんと、子育てとは社会について知ることでもあるとはよく言ったものだ(そこでの用法とはだいぶ違っているけれども)。

 

参考文献:

Lancy, David., 2020, Child Helpers: A Multidisciplinary Perspective, Cambridge University Press

Sacks, Harvey., 1992, "Fragment: Verb uses; 'A puzzle about pronouns'." Lectures on Conversation, VoL.1&Ⅱ, Blackwell Publishing, 150-154.

Warneken, Felix and Tomasello, Michael., 2006, "Altruistic Helping in Human Infants and Young Chimpanzees." Science 311(5765), 1301-1303.

見えないものを(一緒に)見る力

列車のシールがたくさん貼ってあるシートを持ってきて、「どれがいい?」と四歳児が聞くので、僕は「ドクターイエローがいいかな」と返事をした。それに対して特にアクションもなく、四歳児はどこかに行ってしまったが、特に気にもとめずにスマホをいじっていた。少しして四歳児が再び僕のところにやってきて、「はいどうぞ」と一枚の紙を渡してきた。

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そして、「すごーい、伸びちゃった!」と言ってきた。「透明なの?」と聞くと、「うん」と言う。紙を見つつ「すごーい、伸びちゃった!」を聞いた僕は、

  • 黄色い電車の先頭車両のシールが左右一直線上に貼られていること
  • 右の先頭車両の左横に同じく黄色い車両のシールが貼られていること
  • 左の先頭車両と、右の車両の間がけっこう空いていること
  • (1)直前のやり取り、(2)車両の色、そして(3)これらのシールが一直線上に貼られていること、以上よりこれらのシールと「左の先頭車両と右の車両間の空間」をひとまとまりのもの、すなわちドクターイエロー全体であること

以上をすぐさま理解した。そのうえで「透明なの?」と「左の先頭車両と右の車両間の空間」について質問し、四歳児は「うん」と答えた。

なるほどこれは「非感性的完結(amodal completion)」されたものが四歳児にも「見える」ようになったということだ。非感性的完結とは、隠された部分は直接的に見えるわけではないが、完結したまとまりをもったものとして知覚されることに与えられた知覚心理学の表現だ。

どうして四歳児に見えないはずの「車両」が見えるようになったのだろうか。山口では電車を利用する機会がそう多くないこととコロナ禍であることが相まって、四歳児は実は電車は数えるほどしか乗ったことがない。しかしテレビで電車を見る機会は多い。そこで電車の形状を把握したのかもしれない。山口線の電車は最大四両編成(宮野駅以降は二両編成)で、それを電車の標準的車両数だと捉えているから「すごーい、伸びちゃった!」なのかもしれない。ともあれ、学習の経緯や内容はよくわからないが、四歳児が電車の形状について何らかの知識をもっているということは間違いないだろう。

「知っている」ことが見えないものを見えるようにした。これはわかりやすい説明だ。たまたまノエの『知覚のなかの行為』を読んでいたので、このことについて簡潔に説明した箇所を引用しよう。ノエは知覚における信念説について次のように述べる。

監視柵の向こう側に猫が動かずに座っている。厳密に言えば柵越しに見える猫の部分を見ているだけであっても、あなたは猫が現前しているという感覚を持つ。このように私たちが知覚経験を猫全体のものとして享受できるのはどうしてだろうか?…[略]…この現象の説明を試みる一つのやり方は、猫やびんをまとまった全体として経験するためには、びんとは何であり、猫とは何であるかについての知識を活用することが必要であるということを、よく知ることである。あなたは自らの概念的技能を行使する。

(Noë 2004=2010. 92)

これについてノエは「このことは疑いなく正しい」としながらも、次のようにコメントする。

…私たちが欲しているのは、例えば、びん全体があそこにあるとか、猫全体があそこにいるという私たちの思考、または判断、あるいは信念についての説明ではないからである。私たちが欲しているのは、それらが現前するという私たちの知覚感覚についての説明なのである。

(Noë 2004=2010. 92-3)

ここからノエは知覚のエナクティヴ・アプローチを主張するのだが、その中身について云々することはここでは課題ではない。注目したいのは、思考的現前にせよ、知覚的現前にせよ、いずれにおいても個人の問題として検討されているということだ(ちなみにノエは「意識は頭の中にある」という考え方を批判している)。ノエのこの立論自体がおかしいと言っているのではない。ここでは、知覚とは個人の問題として捉えられている現象だということだけ押さえられればよい。

さて、ここで考えたいのは、「知覚を個人の意識の問題」として考えること、そのことである。先に僕は「どうして四歳児に見えないはずの「車両」が見えるようになったのだろうか」という問いを立てた。このような問いを立てたので、おのずと思考は四歳児個人の問題に向かった。しかし、ふと立ち止まって考えるに、「この問いを立てる僕」のことをなぜ一緒に考えないのか、とも思うのである。四歳児個人に思いを馳せるきっかけは、四歳児と僕とのやり取りだった。にもかかわらず、関心は「やり取り」に向かわず、四歳児の意識に向かってしまうのか。

その要因自体はよくわからないけれども、たしかに僕たちは「見てわかるもの」よりは、「見えなくてよくわからないもの」につい目を向けてしまう。子どもが何を考えているのか。何を欲しているのか。こういったことを親は知りたいので、親として振舞っている限りは、そもそもそっち方向に関心が向くということはあるだろう。

あるいは、私秘的なものがもつ独特の魅力も関係あるのかもしれない。「わからない」ということは問いであったり、非難であったり、戸惑いであったりする。これらはたいていは「いつもとは違う」とか「ふつうではない」といったことと結びついている。特別な状態や経験であることはたしかだが、それが何なのかわからない。こうした踏み込めなさへの突然の出会いに何らかの感慨を抱くということはあるだろう。

しかし、ここでこの思索は止めたい。わからないことはわからない。他人の意識に関心が向く理由がわかったところで、それは四歳児の意識がどうであるかという問題を解決しない。ここで考えたいのは、この問いに取り組むということではなくて、「知覚を個人の問題として考えること」、このような問いそれ自体である。もう一度書くと、この問いが生じたのは、たしかに四歳児と僕とのやりとりにおいてであった。このやりとりにおいて、四歳児が何をどのように見たのかかなりのことがわかったし、実際やり取り自体はとてもスムーズで、なんらトラブルは生じていない。しかし僕の関心はそれ自体には向かわず、むしろそれを資源として「なおもわからないこと」へと勝手に向かったのである。端的にわかってしまうことは、「なおもわからないこと」がそれとして「わかる」ための資源である点で基盤的なものであるが、それゆえに特段の焦点が当たらないものでもあるのだろう。このことについて考える際に、次のエピソードが参考になる。

アニマシー知覚の古典であるHeider & Simmel(1944)*1に対して、メイナードが「とにかくもう一歩のところまで現象に近づいて、現象を失う(come so, so close  and lose phenomena)」(Garfikel 1996, 16)と述べたというエピソードである。

Heider & Simmel(1944)の概要はおおよそ次のとおりである。被験者を3グループに分け、第一グループは34人、第二グループは36人、第三グループは44人。それぞれ下記の動画*2を2度見せる(第三グループのみ、同じ動画を逆にして見せている)。動画を見せる前に簡単な説明をし、視聴後に動画に対する質問に対して記述課題を与える。その際、動画に対する質問を制限なしで受け付けている。


www.youtube.com

第一グループには、「このピクチャーで起きていることを書いてください」という課題を与えている。第二グループには、動画中の図形の動きについて人間の行為として解釈するように指示を出した上で、10の質問を与えている(例:「小さな三角形はどんな人ですか?」「この動画のストーリーについて書いてみてください」など)。第三のグループには、先の10個の質問のうち4つを抜粋して取り組んでもらっている。

結果は、第一グループは1名を除いて、第二グループは全員、第三グループは2名を除いて、人間の活動に置き換えて解釈していたということである。その特徴は、動きの起源を図形のユニットやその動機に帰属させることだと述べられている。なお、この論文では「知覚」という言葉を、一連の受容体が何らかの刺激にさらされたあとに生じる認知プロセスすべてを含んだ「認知的反応」という意味で用いている。だから、解釈もまた認知的反応であり、知覚だとされている。

メイナードはこの実験と分析に対して「現象を失う」と述べているわけだが、どういうことだろうか。それは、被験者が知覚したものを語ることそれ自体の組織が中心的に問われていないということを指している。機能的意味付けを行うこと、時間的秩序のもとでストーリーを展開すること、出来事の展開を関連付けて順序を作り上げること…こういったことをすることが、知覚現象なのではないか、と言うのである。

ハイダージンメルからすれば、人間の活動に置き換えて記述した被験者と、幾何学的な語彙で記述した被験者は異なっている。後者は「例外事例」であり、前者は数的優位性があるという点で「一般事例」として特徴付けられている。ハイダージンメルは、被験者の記述を示し、それを詳細に分析する。それはたしかに、メイナードが言うところの「機能的意味付け」「時間的秩序のもとでストーリーを展開すること」などに照準されているのだが、最終的には、多くの被験者の記述に共通する特徴、すなわち「動きを人の行為という観点より組織することが、環境の不変性と結びついていることと」と、「幾何学図形の変化の一連のシークエンスを理解するためには、動機の観点から見られる必要があること」、以上を取り出す方向へと向かう。

こうした議論の流れにおいては、(このことはメイナードは指摘していないが)例外事例として示された知覚の記述それ自体の内生的な秩序が、「一般事例」と同じように分析されることはない。しかし、次の例外事例とされた被験者による記述の引用を読んでもらえばわかるように、人の活動や動機に帰属させずとも、動画中で何が起きていたのかはわかる(部分的に描写が間違っているところもあるが)。

大きな三角形が長方形のなかに入っていく様子が示されています。長方形のなかには出たり入ったりするたびに、長方形の角と一辺の半分が開口部になります。そして、もうひとつの小さな三角形と円が登場します。大きな三角形が中にあるあいだに、円は長方形のなかに入ります。2つの図形が回転状に動き、そして円は開口部から出て小さな三角形と合流します。その後、小さい三角形と円は一緒に動き回っていて、そして大きな三角形が長方形が出てきて小さい三角形と円に近付くと、小さい三角形と円と大きな三角形は長方形のまわりをぐるぐると高速で動き、消えていきます。いまや一人になった大きな三角形は、長方形の開口部のあたりで動き、最後に開口部を通って中に入ります。彼(原文ママ!)は内部で高速に動き、開口部を見つけられず、側面を突き破って消えていきます。

(Heider and Simmel 1944, 246)

後半部分から少し人間の活動になぞらえて記述しているが、おおむね幾何学的語彙で記述していることがわかる(論文中では説明はないが、おそらく「原文ママ!(sic!)」は論文の著者らが書き加えたものだろう)。そしてこれはこれで、図形の動きを捉え、その展開を記述するものとして何らおかしいものではない。

さらに、とメイナードは言う。「知覚、意識、認知といった言葉で要約的に語られるこれらのプロセスには『もっと(more)』何かがあったのではないか」(Garfikel 1996, 17)と述べる。たとえばゲシュタルト図を扱う教室内では、学生と教授の共同的活動の流れのなかで産出し注目する公的な記述を切り離すことはできないのだ、と*3

さて、いささか遠回りしてきたが、Heider & Simmel(1944)をめぐるこの議論は、先の「透明な車両」をめぐる四歳児と僕とのやり取りと、そこからの僕の思索を再考する際に参考になる。

先に、紙を見て僕自身が理解したことについて、以下のように列挙した。

  • 黄色い電車の先頭車両のシールが左右一直線上に貼られていること
  • 右の先頭車両の左横に同じく黄色い車両のシールが貼られていること
  • 左の先頭車両と、右の車両の間がけっこう空いていること
  • (1)直前のやり取り、(2)車両の色、そして(3)これらのシールが一直線上に貼られていること、以上よりこれらのシールと「左の先頭車両と右の車両間の空間」をひとまとまりのもの、すなわちドクターイエロー全体であること

しかしこれもやはり、「これらを可能にしたもの」をいくつも見落としている。たとえばそれは、好みの電車のシールを選ばせるという活動を前置的に行うという順序立てた活動の組み立て方。紙を見せるという四歳児のものの扱い方。共同注視を可能にする手続き。「すごーい、伸びちゃった!」という発話に対して、「透明なの?」と対象の同定と特徴づけを同時するやり方。こういったことが非常にうまく組み合わされていることによって、お互いに同じ対象について「見て話す」ということが可能になっている。そしてその流れのただなかにおいて、四歳児と僕双方の対象の知覚のありようがある程度共有可能にもなっているのである。こうしたうまいやり方で「見てわかる」ようになっているから、個人の意識が実際にどのようになっているかは、この活動の組織において、「見てわかること」以上のことが特別問題にはなっていないのである。つまり、活動のなかで問題になっていないことを僕はつい気にした、ということだ。

もっと、この「特別問題にはなっていない」ということの合理性と精緻さに驚いてもよい。それほど僕たちはすごいことを、瞬時に、即座にやってのけている。ぼんやりしている39歳の僕と、まだ世界について学び始めたばかりの四歳児でもそうなのだ(自己肯定感があがる!)。

もしかすると、こういうことを言うと、個人の意識の現前に興味がある人からは、ノエよろしく「私たちの思考、または判断、あるいは信念についての説明ではなくて、私たちが欲しているのは、それらが現前するという私たちの知覚感覚についての説明だ」と言われるかもしれない。

これはこれで大事な議論だとは思うのだが、知覚という現象を他者と共に在るなかで観察しあっている対象としてみようとするならば、その方向性は取らない方がよい、という判断になるだろう。

見えないものを見る力は、何かがそもそも「見てわかる」ことに支えられているし、何が見えないということ自体「見える」ということだ。性急に「見えない」ことに向かっていく前に、探求できることはほんとうにたくさんあるのだ。

 

参考文献:

Garfinkel, Harold. 1996. "Ethnomethodology's Program." Social Psychology Quarterly, 59(1). pp.5-21.

Heider, Fritz. 1983. A Life of a Psychologist: An Autobiography. University Press of Kansas(=1988, 堀端孝治『ある心理学者の生涯』協同出版).

Heider, Fritz and  Simmel, Maryanne. 1944. "An Experimental Study of Apparent Behavior. " American Journal of psychology. 57:243-259.

Maynard, Douglas. 2006. "Cognition on the ground." Discourse Studies, 8(1), pp.105-115.

Noë, Alva. 2004. Action in Perception. MIT Press.(=2010, 門脇俊介・石原孝二監訳『知覚のなかの行為』春秋社).

*1:共著者のMarianne Simmelは社会学ジンメルの孫娘であり、のちの認知神経科学者。ハイダーがスミス・カレッジで教鞭をとっていたときの学生とのこと。「私の学生ははかわいく明るい4年生の女子学生であったが、大抵の女子学生は心理学よりもボーイフレンドに大変関心が強かった。スミス・カレッジではほとんど卒業論文を書くものがいなかった。そして私の関心ある考えに興味をもったM. ジンメルのような学生はまれであった」(Heider 1983=1988, 155)とのことである。

*2:この動画はニューヨーク市立大学ヨーク校の社会心理学者、William Ashtonによってクリエイティブ・コモンズライセンスが適用されている。

*3:このエピソードはGarfinkel(1996)ではMaynard(1995)からの引用として書かれているが、Maynard(1995)は未刊行。ただし、このエピソードに該当する分析は、Maynard(2006)で展開されている。

テーブルの上に積み上がった本と書類をどうするか。どうもしない。

年末だから掃除をしようとかいう面倒な心掛けの類をこれでもかと捨て去ってきたが、それはそれとして散らかりすぎだろう。研究室の惨状を目の前にして、さすがにそんなことを思ってしまう。

本ぐらいは本棚に戻すかと机上にとっ散らかった本を手にとれば、どれどれとつい目を通してしまう。一度本棚から出したということは、何かの用事があったということだ。その本の何を、何のために参照しようとしたのか記憶をたどろうとするのだが、たいがいは思い出せない。思い出せないのだが、きっと大事なことが書かれているから出したはずなのだ、という期待がページを次々にめくらせる。

片付けついでにティム・インゴルドの『メイキング:人類学・考古学・芸術・建築』の第六章「円形のマウンドと大地・空」を読んだ。インゴルドがマウンド(小山)についてあれこれと思索をめぐらせるのだが、なるほどマウンドとは面白い。

マウンドを観察するということは、現在のその成り行きを目撃することでもある。それは積み上げる行為において存在するといっていい。このことは、マウンドを或る基盤の上に立ち、その環境に対して立ちはだかり抗うように設置された完成された対象物だと考えることではない。そうではなく、地中から湧きでてきた物質が、天候の流れと混ざりあい、生命を継続して生み出している成長と更新の場を考えることである。

(Ingold 2013=2107, 166-7)

インゴルドが思索の対象としているのは、大地に根ざした堆積物の隆起としてのマウンドである。彼の考察の詳細については本書を読んでもらうとして、僕が面白みを感じたのは「マウンドを観察することとは、積み上がるという行為のうちにある成り行きの目撃を通して、生命を継続して生み出している成長と更新の場を考えることだ」というこの要約的表現である。

インゴルドの思索は大地のマウンドに向かっているけれども、僕は目の前の人工物のマウンドをこの態度で観察したい。この部屋には、人工物のマウンドが少なくとも2つあるのだ。しかもそれは一つのテーブルの上にある。この1年間のうちどこからか発生して、長いことこの部屋に残り続けたものである。

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ひとつめはこの積み上がった本である。これをマウンドといってよいのかとも思うが、まあ「積み上がったもの」繋がりということで。

これは見る人がみれば、何か統一的テーマのもとで積み上げられた本たちだということが何となくわかるだろう。事実そのとおりなのである。今夏、一本の論文を書こうと思っていた。それに必要な本をまとめておいたものである。残念ながらその論文は一文字も書かれることなく年末まで至った。まだ諦めきれないんだという未練と、でもやっぱり(あれやこれやの事情で)書けないよなあという諦念のせめぎ合いがあるなか、この積み上げられた本をずっとそのままにしている。来客時は一時的にどかしたりしたこともあったが、半年以上ずっとこのままだ。

片付けられない人工物のマウンドは、この積み上げられた本の対面にもある。じつは本題はこっちである。こっちは先のものよりもマウンドらしい形状である。まずは写真をみてほしい(いかにも片付いていない感じで恥ずかしいのだが)。

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書類やら何やらが雑多に積み重なったマウンドである。先の積み上がった書籍が整然と積まれていたのに対して、こちらは明らかに「雑」で、いかにもこの部屋の主のだらしなさを示しているように見えるだろう。それはそうなのだが、この雑さには合理的な理由がある。

先の積み上がった書籍が半年以上そのままであったのに対して、こちらのマウンドはかなり動的である。というのも、ここは「決まった置き場所はないし、扱いも定まっていないが、すぐに捨てるほどでもない資料」を置く場所だからだ。

だから、このマウンドはすぐに積み上がる。ときどきそれをかき回しては、必要な資料を引っ張り出して少し読み、マウンドのてっぺんに放り投げる。その積み重ねがあって、このマウンドは現在の形になっているのだ。

どちらも確かに「積み上げる行為」によって形成されている。しかし、その成長と更新という点からみれば対照的だ。積み上げられた書籍は、僕が論文を書くという活動に没入したときに成長と更新の場として動き出すだろう。しかしいまはただ静かに眠っている。一方で、書類のマウンドは、集合としての曖昧さゆえに何でも放り投げられるから、この一年間は相当に活動的だった。しっかり観察していないが、マウンドの形状自体はそう変化していないと思うが、その中身は相当に入れ替わっていると思われる。

同じテーブルの上にある二つの対照的なマウンドをしげしげと見つめ、その来歴を振り返る。どちらも僕には必要で、片付けの対象ではない。年を越してもしばらくこのままだ。事情を知らない人はこの状態をみて「片付いていない」と言うかもしれないが、そうではないのだ。でも、来年も来室した人にたぶん僕は「すみません片付いてなくて」と言うのだろう。

研究室はたいして片付かなかった。

 

参考文献:

Ingold, T. 2013. Making: Anthropology, Archaeology, Art and Architecture. Routledge.(=2017, 金子遊・水野友美子・小林 耕二訳『メイキング:人類学・考古学・芸術・建築』左右社)

お片付けをめぐる親子の攻防

「そろそろおもちゃ片付けてね。掃除するから」

四歳児との暮らしでは、生活上の必要(たとえば掃除をするため)としつけのために頻繁に親は「片付けせよ」と子どもに言わねばならない。子どもはとにかくなんでも散らかす。生活上の必要の点から言えば、はっきり言って自分で片付けたほうが早いのだが、いつもそうするわけにもいかない。子どもが「片付けは親がするもの」だと思うようになっては困るし、そもそも「片付け」ができるようになってもらわないと今後の人生で困るだろうから、子どもになんとかやらせたい。生活の維持と子育ての難しい関係がここにある。

だから親は子どもに片付けをさせるためのさまざまな方略を講じ、トライ&エラーで繰り出すことになる。トライ&エラーと書いたのは、とにかくそれが失敗するからだ。

最近、子どもに片付けをさせる親の方略についての会話分析論文(森 2021)を読んだ。子育て中の私からするとどれも「あるある」で、「おたくもそうですか!」と共感しつつ読んだわけだが、ふと疑問に思うことがあった。片付けってなんだ、ということである。

当該論文では、子どもが片付けの意味がわかっていない可能性に思い至った親が「かたづけするじかんっていうのは、かたづけっていうのはなんだかわかる?」と子どもに質問する断片がある。子どもは頷きつつも説明を開始しないので、親は「ちらかっているものをもとにあったばしょにもどすってことだよね?」と確認している。

自分の管理下にある空間の片付けをしたことがある人ならおそらくみな経験していることだと思うのだが、私たちが普段やっている片付けは「もとにあった場所に戻す」という単純な作業だけを意味していないことが多い。パッと思いついたかぎりでは、少なくとも次の2つの特徴があるように思う。

  1. ものが増えたり減ったり、使用上の優先順位が変化したりするなかでの自分にとっての最適化に指向した微調整
  2. 他者から見ても「整っている」こと、すなわち「見てくれの整序性」を向上させる取り組み

他人の介入の余地のない空間ならば(1)だけでよいだろうが、他人の介入がありうるような空間ならば(1)と(2)の組み合わせか、当座の説教を逃れるために(1)を犠牲にして(2)だけやるということもあるだろう。とりあえず全部押入れに詰め込んでおくか!というあれである。

ところが、自身の管理する空間が与えられていないか、それに著しく介入を受ける段階の子ども、すなわち幼児は「自分にとっての最適化に指向した微調整」が容易に認められない存在である。実際うちも、おもちゃ棚のなかの配置にかかわるゆるやかなカテゴリー化とその都度の微調整は親がやっている。こうして親によってその都度設計された空間的秩序を再構成することは子どもには期待されていないか、認められていない。せっかく幼児が自分なりに片付けても「適当なところに置くな」とか注意されてしまう始末である。もとにあった場所に戻されていないのを見て、「またぐちゃぐちゃにしまって…」と愚痴りながら親は手を伸ばす。「もとにあった場所に戻せ」という変化を許容しない要請は、こうしたことが背景にあるのではないか。なんてことを考えていた。

そんなことを考えながらうちの出来事をつらつら思い返していると、そういうことに子どももうまく対処してくることあるよな、ということに気づいた。ついこのあいだのことである。

うちの四歳児は滅多に自分から片付けをしないので、いつも私から「はやくやりなさい」と言われ続けている。片付けをめぐる度重なるやりとりにおいて、いつ頃からか四歳児は「これは作品だから片付けない」と言うようになった。レゴや廃材で作ったロボットなどの工作作品のことである。これについてはこちらも「たしかになあ」と思うので、許可なく解体することはせず、その都度適当な置き場所を四歳児に提案しつつ、部屋を片付けていた。

つい先日、紙とペンをもって四歳児が「作品は触らないでくださいって書いて」と言ってきた。意図は図りかねたけれども、だからといって無下に断るような依頼でもないので言われるがままに書いたところ、四歳児は家のなかのものをかき集め、部屋の一角にこの画像のようなスペースをいそいそと作ったのである。

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ダンボールの切れ端を衝立にして、そこに「さくひんはさわらないでください」と書いた紙を貼り、その後ろ側に牛乳パックで作った台を置いた。そしてその台の上にいろんなものを置いたのである。見てもらえばわかるが、作品というにはあまりに未完成に見える、つまり親に「ゴミ」として処分されそうなものが置かれている。

しかし、これらはここに置かれることによって「作品」になってしまった。あるものが作品であるかどうかという問題は、その処分や片付けにかかわる重大な判断材料なのだが、それを四歳児は利用してきたのである。「作品は勝手に処分しない」と言い続けてきた手前、「いやいや捨てなさいよ」と言うのは容易ではない。発言の一貫性を維持するのも親の重要なワークである。かくして四歳児はうちにおける「作品」をとっかかりに、自身の管理下となるスペースをまんまと作り上げた。これからはこちらも「それが作品で片付けられたくないならそこに置きなさい」と言わないといけない。

特定の事物が「作品」として意味付けられることによって、そしてそれを置く空間が設定されることによって、私たちはそれを資源として行為を組織しなくてはいけなくなった。それまでは適当に散らばって置かれているものをひとつひとつ取り上げ、それが作品であるかどうかを確認しながら親子で片付けをしていた。その際私は「こんなところに打ち捨ててあるってことは片付けてもいいものだってことなんじゃないの?」と言い、作品ならばそんな扱いはしないのだ、しかし君は、という話法で片付けを要請していた。しかし、この空間ができたことにより、そこに置かれたものは作品としてみなさなければいけないようになった。言ってみれば、何が作品であるかを認定する初手を四歳児は常に取れるようにしたということである。

つまるところ、片付けをする/しないの攻防において、我々は片付けの対象になりうる事物に対して、「作品として適切に扱うとはいかなることなのか」という基準を共有しながら、それに基づいた事物の扱いの適切さと何が作品であるかを認定する順番について争ってきたのである。

ここにきて、子育てにおける片付け問題は次のフェーズに入ったのかもしれないな、と思った。それまでは「もとにあったところに戻せ」で済んだのだが、これから親は、子どもの管理下にある空間的秩序のバランスの問題を踏まえて「片付けせよ」と言わなければいけないし、四歳児もそのもとで適切なバランスを考慮しなくてはいけないだろう。まあ相変わらず「もとに戻す」ことは滅多にやらないので、同時並行的にしつけをせねばならないのだが。ともあれ、このスペースについて、

巣穴的な活動の自己組織化がバランスを失い収拾つかなくなってしまうことを防ぐような、具体的なやり方、手順、プロトコル、ストラテジー、方針、あるいは具体的な道具、ツール、デザイン、インターフェース、等々を、利用可能なものとして見つけること

(石飛 2011, 15)

…が親が可能になるように子どもは必要に応じて親を説得することが求められるだろうし、親は親で、眼前の状態からこれらが発見できるかで注意すべきかどうかの判断を下すことになるのだろう。こうしたことが必要なくなるタイミングが片付けのしつけの終わりなのだろう。

子どもからすれば親の「片付けをせよ」という圧力からの回避実践としての方策だったのかもしれないが、じつは私からすればしめしめであった。特定の空間に意味を与え、その意味に結びつくものを集めることもまた、片付けだからだ。

そして今日も四歳児は奔放に盛大に散らかしていて、私はため息をついて「片付けてね」と言う。

 

[参考文献]

石飛和彦(2011)「部屋をかたづける」『天理大学生涯教育研究』15, pp1-16.

森一平(2021)「片づけはなぜ難しいのか――その困難さと対処戦略の「しくみ」」是永論・富田晃夫編『エスノメソドロジー 住まいの中の小さな社会秩序 家庭における活動と学び』明石書店